
画像は、練馬区小竹1丁目にある「茅原浅間神社」を南から見たところです。この境内には「江古田富士」と呼ばれる富士塚が所在します。この「江古田富士」は『東京都遺跡地図』には、練馬区の遺跡番号117番の名称のない塚として登録されています。

かつてこの周辺が一面の茅の原であったために「茅原浅間神社」と呼ばれるようになったそうですが、江戸時代には「富士浅間社」とも呼ばれていたようです。西武池袋線の「江古田駅」の北口を降りて徒歩1分と近いところにあり、富士塚は拝殿の後ろ側に残されています。この「江古田富士」は、元々あった古墳を流用して造られた富士塚であるといわれており、高さ約8m、直径約30mの墳丘には富士山から持ち帰った溶岩が盛られています。
(財)日本常民文化研究所より発行されている『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』には、古墳が富士塚に改変されたようすについて次のように書かれています。
(前略)塚の形態は、饅頭形をした頂部に富士形の土盛りをかさ上げしている。饅頭形の部分は、古墳時代の古墳と伝えられているように、古墳の墳丘の形態をみせており、とくにその特徴は北半において顕著である。(中略)塚の形態も南側が平坦的であることを考えると、富士塚を構築するときには、古墳の封土を切り剥いで頂上部に積み上げたことを知ることができる。なお、塚の頂上部から縄文時代早期の押形文土器が採集された。(後略)」(『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』144〜146ページ)

画像が、「江古田富士」を南から見たところです。敷地内には東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
練馬区登録有形民俗文化財
国指定重要有形民俗文化財
江古田の富士塚
江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保10年(1839)に築造されたものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818年)築造ともいわれています。高さ約8メートル、直径約30メートル、関東大震災の時に損壊しましが、その後復旧され、塚全体が富士の溶岩で覆われています。
頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保10年に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗・神猿などの石像もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化4年(1807)の石灯籠や文化9年(1812)の手水鉢なども残っています。
都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。
平成元年3月 練馬区教育委員会
年3回の一般公開(正月三が日、山開きの7月1日、9月の第二土曜・日曜)の日に登拝することができるそうです。
<参考文献>
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ふるさと練馬探訪』
名著出版『練馬区の歴史』
現地説明版
- 2014/11/15(土) 22:33:48|
- 練馬区の古墳・塚
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こんにちわ。
練馬区は探索したことがないのですが、富士塚がたくさんあるのですね。それにしても都心では古墳転用富士塚説が結構あります。その方が富士塚を造りやすかったのでしょうか。
- 2014/11/22(土) 07:26:06 |
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- kame-naoki #-
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kame-naokiさま
いつもコメントありがとうございます。
自然地形だけでなく、元々あった塚や古墳を流用して富士塚を築造することは多かったようですね。
「豊島長崎の富士塚」や「十条富士塚」の他、板橋区の「赤塚氷川神社富士塚」や「赤塚諏訪神社富士塚」等も古墳説があるようです。どの富士塚も、実際に訪れてみるといかにも古墳らしいと思える場所に所在していますし、大きさからしても内部に残る古墳を想像してしまいます。
- 2014/11/24(月) 23:21:43 |
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- ご〜ご〜ひでりん #hzwp2T5Q
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