
南千住2丁目48番地から69番地(現在の南千住2丁目11番地から15番地あたり)周辺は、元の小字名を「道久塚」といったそうです。その昔、道久という人が長旅の途中で病に疲れて、水を飲もうとして誤って小川に落ちて死んでしまったそうです。それを里人が哀れんで塚を築いて弔ったのがこの道久塚であるといわれています。
この道久塚について加藤雀庵は『小鳥のさいづり』十四巻に、「日本堤より北の方、一丁余の田の中に土俗ダウキヤウ塚と呼べる地あり。方二、三間ばかりのいささかなる小塚の形残れり。」と記しており、さらにそのおわりに「余の幼きときまでは上にいへるごとし、今はその地及び小塚もありやなしや、おぼつかなけれど、なほ道鏡塚の名存せり」と書かれていることから、明治初年にはすでに塚は削平され、地名だけになっていたようです。加藤雀庵は明治8年に81歳で没した人で、塚が残っているのを見たというのは、享和か文化の頃ではないかと考えられているようです。
画像は南千住2丁目、かつての小字「道久塚」のあたりを南から見たところです。画像の左側手前から13、12番地、右の背後から奥に向かって15、14、11番地です。この「道久塚」は古墳ではないかとも考えられているようですが、残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。
また、加藤雀庵の『みのわの雨』十四巻には「又小塚原田圃石橋より橋場の方へ至る野道より南の方玉姫稲荷の方へかけての田地を土俗塚田と称せり、塚のかたち四つあり、按るに石浜合戦の戦死の人の古墳なるべし、上の道キヤウ塚も同じたぐいにや。」とあり、この周辺に多くの塚が存在したことが書かれています。
旧字名で「石橋」とは現在の南千住8丁目周辺のようですから、塚が存在したのは現在の荒川区南千住3丁目から台東区清川2丁目、橋場2丁目辺りなのではないかと思われます。荒川区側には4基の塚の他に「石浜の経塚」や「道久塚」、台東区側には「妙亀塚」や「釆女塚」、「駿馬塚」などが存在したことを考えると、このうちの幾つかが古墳であった可能性も少なくないように思いますが、多くの塚が消滅してしまった現在ではこれを確かめることは出来ません。。。

画像は、台東区清川2丁目にある「玉姫稲荷神社」を東から見たところです。塚田と呼ばれ、4基の塚が残されていたのは、この玉姫稲荷から南千住にかけてのあたりであると思われますが、古墳の面影など微塵も残されていないようです。
台東区周辺には女性の悲しい言い伝えが残されている神社や塚が数多く、この玉姫稲荷神社にもひとつの伝説が残されています。昔、この周辺に暮らしていた砂尾長者という金持ちの一人娘が恋に破れ、鏡が池に身を投げて命を絶ってしまい、この玉姫を祭ったことから「玉姫稲荷」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。
台東区千束には吉原があり、1658年(明暦3年)の大火後、幕府の命により日本橋の吉原遊郭が移されて以来、売春防止法が施行される昭和33年(1958)まで300年間もの間、遊郭街新吉原は特に江戸時代を中心に風俗・文化の源泉でした。しかし、明治時代には吉原大火により全焼、その後大正時代の関東大震災や昭和の東京大空襲でもほぼ全焼するなど悲しい歴史も多く伝えられています。遊女達の結ばれない悲しい恋の物語も多かったのかもしれませんね。。。。
<参考文献>
芳洲書院『続隅田川とその両岸(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
- 2014/11/18(火) 02:01:46|
- 荒川区/南千住 微高地
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- 2014/11/18(火) 08:49:09 |
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