
荒川区内にはかつては数多くの塚が存在したといわれており、現在の南千住周辺にも多くの塚が存在したといわれています。ほとんどの塚はすでに開発により消滅しており、これらの塚が古墳であるか中世以降の塚であるかは確認する術はありませんが、古い江戸時代の文献には塚の言い伝えが残されています。
「石浜の経塚」は、かつての総泉寺の北側の畑の中に残されていたとされる塚です。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「云、鎌倉将軍頼朝隅田川合戦の刻、討死の者を埋し首塚は、只今総泉寺後ろの田の中に有よし、後に誤りて蛇塚と呼よしなりとあれは、今其名を唱えるものなく、また此余に塚もなけれは此塚のことなるへし」とあり、また『南向茶話』には「総泉寺の北裏あたりにあり、高一丈許、塚上に稲荷の小祠をたつ」と記されています。
『新編武蔵風土記稿』は隅田川合戦の死者を埋めた首塚であると伝えていますが、経塚であるとも伝えられており、高さ3メートル程の塚上に祀られていた経文稲荷は経塚を利用して後世に祀られたものであるといわれています。ただし、塚を発掘した際には経文その他の埋蔵品は発見されなかったそうですので、この塚が経塚であったか、それとも古代に築造された古墳であったかは何ともいえないところですね。
現在は板橋区小豆沢に移転した「総泉寺」はかつて台東区清川2丁目から南千住3丁目あたりに所在したとされておりますので、総泉寺の北側にあたる現在の荒川区南千住3丁目周辺が塚の推定地であると思われます。また、東京瓦斯会社が出来る時に塚の稲荷が撤去されたといわれていることから、画像の東京ガスが所在する(南千住3-13)辺りが塚の推定地であると思われますが、正確な所在地まではわかりませんでした。
この塚の稲荷には御神体の鏡があり、祠が撤去された際に橋場2丁目の個人邸内に移されているそうですが、特に調査はされてのが残念なところです。。。


荒川区南千住3丁目、石浜神社の社殿の右側には高さ約3mの「白髭富士」が所在します。周辺に古墳の可能性のある塚の言い伝えが多く残されていることから見学に訪れてみたのですが、この富士塚に関しては、特に古墳を流用したということもないようですね。。。
それにしても、富士塚の頂上に立てられている石造物はいったいなんだろう???
<参考文献>
芳洲書院『続隅田川とその両岸(下巻)』
東京都荒川区教育委員会『南千住の民俗』
- 2014/11/23(日) 01:07:29|
- 荒川区/南千住 微高地
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