
画像は、板橋区大門にある「赤塚諏訪神社富士塚」を東から見たところです。「東京都遺跡地図」には、板橋区の遺跡番号142番の名称のない塚として登録されています。
東京都板橋区役所が昭和29年に発行した『板橋区史』によると、「上赤塚氷川神社及び下赤塚町諏訪神社境内その他にある浅間神社の人造富士塚は、古墳を利用して盛土したものかとも考えられる。」としながらも、「古墳はその性質上群在する場合が多いのであるが、板橋区の地域には、古墳群と認むべきものが存在せず、従つて個々にある古墳状の盛土が、果して古墳なりや否やを断定するのに困難を感じるもので、前記二つの人造富士塚も、同様古墳を利用したものとの確証は無いのである。盛土の形状及び土地の人の何々塚と呼ぶ名称からして、直ちに古墳なりと認定することはまことに至難であり、また危険でもある。」とも書かれています。ただし、板橋区内の塚について色々調べてみると、四葉地区遺跡からは径約7〜10mの円墳5基が、菅原神社台地上遺跡からも2基の円墳が発見されるなど、それまで未確認だった古墳の周溝が検出されていますし、「東京都遺跡地図」に登録されている以外にも言い伝えなどに残る塚はかなりの数に上ります。この赤塚諏訪神社富士塚が古墳を流用した可能性も十分に考えられるのではないかと思います。

画像は、富士塚を南から見たところです。雑草が生い茂っていて少しわかり難いかもしれませんが、奥に見える小山が富士塚です。見学するには冬が望ましいかもしれませんね。
現地に立てられている説明板には次のように書かれています。
赤塚諏訪神社富士塚
富士塚は、一般的には、富士山への登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
また、富士塚への登山自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとされています。なお、各地の富士塚では毎年七月一日前後に、富士山の山開きに合わせた祭礼が行われている所もあります。
当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治三年(1870)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地域に伝播していた可能性が考えられます。
また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡)となりました。
平成二十三年八月 板橋区教育委員会
<参考文献>
東京都板橋区役所『板橋区史』
板橋区史編さん調査会『板橋区史 資料編5 民俗』
現地説明版
- 2015/01/09(金) 02:03:11|
- 板橋区/その他の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0