
「大塚古墳(矢崎山)」は、狛江市猪方1丁目に所在したとされる古墳です。
昭和35年(1960)の、当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査により把握されていた古墳で、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、104番に名称のない古墳として取り上げられています。ただし、古墳はこの時点ですでに削平されていたと考えられ、『狛江市の古墳(Ⅰ)』には、「付近には数基の古墳ありという 台地の先端に近い地」とのみ書かれています。
その後、昭和51年(1976)の分布調査の資料にも記述か見られ、「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できる古墳」として取り上げられており、「1955年5月、附近から円筒埴輪片が出土し、1956年には第3小学校建設のために地ならしを行ない、その際土器片多数が出土したという。」と、興味深い記述がみられます。
さらには、『狛江市史』の「狛江古墳群一覧表」には石棺の存在についても記されており、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にも「矢崎山」という名称で取り上げられていますが、現在の『東京都遺跡地図』には登録はされていないようです。
矢崎山古墳の正確な跡地はわからなくなっているようですが、狛江市中央公民館から発行された『郷土のむかし講座』には、古老の話として、「「矢崎山」があってそこに第3小学校ができました。小さな山でした。」と書かれているように、この学校の敷地に矢崎山が存在したとする文献は少なくないようです。
画像は、狛江市猪方1丁目の狛江第3小学校敷地内にある「矢崎花壇」を南から見たところです。この場所が矢崎山の跡地であるという説もあるようですが、学術的な調査が行われていないことから真相は不明です。

矢崎花壇の周囲の道路は、この場所を取り巻くように弧を描いており、確かに、いかにもここに古墳が存在したかのような形状となっています(ちなみに狛江市元和泉1丁目にある「亀塚古墳」にも同様に、かつて存在した古墳の周囲を巡る道路が現在も残されています)。この矢崎花壇に、第三小学校PTAにより立てられている説明板にも、「以前よりこの地が矢崎山と呼ばれていた」と書かれており、この場所が古墳の跡地である可能性は高そうです。
「大塚」という名称からしても、少なくともそれほど小さな古墳ではなかったでしょうから、この矢崎花壇の地点が古墳の跡地としてはサイズ的にぴったりな印象がありますが、確証を得るには至りませんでした。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=194247&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和23年に米軍により撮影された矢崎山古墳周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っていますが、画像の中央あたりに円形の古墳らしき形状の木立を確認することが出来るようです。現代の地図と見比べるとわかるのですが、これは第三小学校の矢崎花壇の位置とは微妙なズレが見られれ、円形の木立からは、東南東に100メートルほどの地点が「矢崎山」という状況です。その後に第3小学校が建てられて花壇となる場所には畑地が広がるのみで、古墳らしき痕跡を確認することはできません。
もちろんこの円形の木立が塚状に盛り上がっていたのか、それともただの円形の林で古墳ではなかったのかは航空写真では判断することができませんし、平らな畑に見える矢崎花壇の場所も塚状に盛り上がっているという可能性も考えられます。円形の木立も矢崎花壇の地点も、両方とも古墳、ということも考えられるわけですが、とても興味深い写真です。
『狛江市の古墳(Ⅰ)』にあるように、学校建設のための整地の際に敷地内から出土したのはあくまで土器片であり、円筒埴輪片が出土したという伝承はあくまで「附近から」ということですから、円形の木立が古墳の所在地である可能性は十分に考えられるかもしれません。

円形の木立の跡地と思われる周辺のようすです。
矢崎山の付近には何かいわれのある祠があったそうですが、残念ながらこれも所在不明で、発見することはできませんでした。
何十年か前までに存在したはずの古墳でも、現代に痕跡を探し当てるのはなかなか難しいですね。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
狛江市中央公民館『平成13年度 郷土のむかし講座』
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- 2015/01/22(木) 01:58:44|
- 狛江市/狛江古墳群(猪方)
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