
北区豊島5丁目の周辺には隅田川(旧入間川)が蛇行しており、土地が天狗の鼻のように大きく突き出ている場所があります。この周辺は古くから「天狗の鼻」と呼ばれていました。この天狗の鼻の先のあたり、豊島のもとの渡船場の手前あたりに所在したといわれているのが「大道法師の塚」です。
画像は、現在の「天狗の鼻」の先端あたりを南から見たところです。ただし、この周辺は河川工事が行われており、大きく地形が変わっています。北区の地図を見ると、北区と足立区の区境のラインが現在の天狗の鼻の先端よりも大きく北東に湾曲していますが、これがかつての旧荒川(隅田川)の川筋です。つまり、天狗の鼻の先端がここまで伸びていたということになります。したがって、大道法師の塚の所在地も画像より北東側ということになります。

この塚には稲荷の祠が祀られていたことから「稲荷(とうかん)塚」とも呼ばれていたそうです。周囲には他に小さな塚も存在していたようで、この塚を壊した人が病気で寝込んでしまったことから、祟りを恐れて大道法師の塚には誰も手をつけなかったといわれています。明治の初め頃までは畑の中に残されていたそうですが、現在は開発が進み、塚は消滅しています。
河川工事が行われる以前の北豊島郡の古地図を見ると、大道法師の塚の跡地ではないかと思われる場所を推測することができます。画像は、北区教育委員会により現地に立てられている説明板の地図ですが、「阿弥陀の渡船場」として矢印で示してある場所のすぐ南西に鳥居のマークが付けられているのを確認することが出来ます。おそらくここが「大道法師の塚」に祀られていたという稲荷の祠なのではないかと思われます。

画像が、大道法師の塚の推定地と思われる周辺です。現在は荒川と隅田川に挟まれた、北区の飛地となっている地点です。当然ながら塚の痕跡を見ることはできません。
この「大道法師の塚」について、『北豊島郡誌』には次のように書かれていました。
【大道法師の塚】 武州豊島郡沼田村へわたり越さんといふ、豊島の渡しの手前西側畑の中に大道法師の塚あり、世上の流布語に大道法師と稱する是なり、土人の説に大道法師の草鞋につきて土砂落たりしが塚になりしといひ傳ふ、里俗はこれを稲荷塚とも稱し或は此あたりを小名に呼で代田ともいへり是昔のかよふを以て土人認め傳へしにや、又此側に小さき塚一つ中古までありしを畑主破壇し圃に引ならしけるに馬骨とも覺しき物夥しく出しが、その祟りにや畑主は年久しく煩ひければ恐れて大道法師の塚へは鎌さへ入ずとなん、大道法師といふものいかなる人にや怪しき巷談ながら見聞せしままを記す、周圍凡三間餘りあらん。文化十一年の記(『北豊島郡誌』359ページ)

画像は、荒川と隅田川の間の飛地にある「宮城ゆうゆう公園」に所在する謎の塚です。特に説明板が設置されているわけでもなく、由来等はわからないのですが、大道法師の塚の跡地と考えられる地点にあまりにも近いのでビックリしてしまいます。
北区から荒川区にかけての隅田川沿いの低地には多くの塚が存在したといわれており、その中には古墳だったのではないかと考えられているものも少なくないようです。この大道法師の塚の周囲には無名の塚も何基かあったようですが、天狗の鼻にも古墳群が存在していたのかもしれませんね。

だいだらぼっちの伝説の残る塚というと、東京都内では立川市富士見町の「富士塚」や、あきる野市雨間にある「大塚古墳」といった方形の塚を思い出しますが、この「大道法師の塚」はどんな性質の塚だったのでしょうか。。。
<参考文献>
北豊島郡農会『北豊島郡誌』
東京都北区役所『新修 北区史』
東京都北区教育委員会『北区の昔がたり』
現地説明版
- 2015/01/25(日) 09:54:13|
- 北区/その他の古墳・塚
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