
画像は、世田谷区大蔵6丁目にある「殿山古墳群 8号墳(大将塚)」を西から見たところです。世田谷区の遺跡番号39-8番の古墳です。
「殿山古墳群」については、昭和37年に発行された『新修世田谷区史』の「第二編 原始・古代 第五章 古墳時代」の項に「大蔵殿山古墳群」の名称で取り上げられており、「殿山古墳群には小円墳群であったらしいがほとんど削平されてしまった」とのみ書かれており、各古墳の詳しい記述は見られません。このように、完全に湮滅したように考えられていた殿山古墳群ですが、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、2基の古墳の発掘調査が行われています。
ただし、この8号墳については、同書の「文化遺産 第五章 伝説」の項に「天明年間に、この地の清水惣右衛門という農民が義賢の塚を発掘したところ、石壁の中に古刀や砂金の類が発見されたが、祟を恐れて古刀、白骨などは朽損のまま埋め、古瀬戸の壷は芦原英俊一に譲ったという。」と書かれており、また昭和50年(1975)に発行された『世田谷区史料 第8集 考古編』にも「平安時代末武蔵国大倉の館で討死した源頼賢の墓とされている。しかし天明年間に農民がこの塚を発掘した際に石壁の中に、石刀、古瀬戸壷、砂金、白骨が発見されたという。古墳の可能性もあろう。」と書かれており、この言い伝えが大将塚が古墳ではないかと考えられる理由のひとつになっているようです。『東京都遺跡地図』ではこの古墳は円墳であるとされています。
古墳は周囲を道路と宅地で削られているものの、個人の邸宅内で大切に保存されています。地元の人には「大将塚」と呼ばれているそうです。

墳頂部には「源義賢朝臣墳」の石碑が立てられています。
当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
東京都世田谷区『新修 世田谷区史 上巻』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
- 2015/02/13(金) 02:42:38|
- 世田谷区/殿山古墳群
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