
「扇塚古墳」は、多摩川下流域左岸の武蔵野台地縁辺部にあたる、大田区田園調布1丁目に所在した古墳です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号145番に登録されています。
この古墳の「扇塚」の名称は、かつて墳丘上に建てられていた稲荷祠に扇を収めたことに由来するといわれ、扇の供養塚ではないかとも考えられていたようです。西岡秀雄氏により1930年代に行われた荏原台古墳群の分布調査の際には、確認された54基の中に扇塚の名は入っていないようです。その後の、後藤守一氏による「東京府下の古墳」『東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第十三冊』の15ページには「本古墳は、現在著しく形が頽されて居り、其れに接して稲荷祠があるので、古墳としての概念には遠いものとなつてゐる。」と書かれていることから、西岡秀雄氏は古墳であると認識しなかったのかもしれません。同書には、当時まだ農地の一角に残されていた扇塚と稲荷祠の写真が掲載されています。
その後、平成8年(1996)に共同住宅建設に伴う発掘調査が行われますが、調査区が限定されていたことや、後世の地形改変や社殿建築による撹乱により、墳形を確定するまでには至らなかったようです。測量調査により辛うじて確認された円丘部分の規模は、直径約20m、墳頂部直径約8mで、3基の埋葬施設が確認されています。このうち1号主体部からは鉄剣2鉄鉋1、鉄鏃4、ガラス小玉10、内行花文鏡1が出土しています。2号、3号主体部からは副葬品はなく、3基ともに木棺が納められていたようです。この木棺の腐朽による墳丘の陥没が50cmと想定して、古墳の築造当時の高さは約3mほどであると想定されています。
墳形については、円丘をそのまま円墳と解釈する説もあり、また円丘を後円部と想定すると、全長40mほどの規模が想定されているようです。ただし、確認された周溝残存部分が直線的であることから、主丘を後方部とする前方後方墳または方墳の可能性も想定されているようです。
このように、扇塚古墳は墳形が確定されないものの低墳丘の出現期古墳で、埋葬施設や副葬品、出土した土器などにより、大型前方後円墳である「宝莱山古墳」に先行する4世紀前半の築造と考えられています。

この古墳については、近隣の住民により碧と歴史を守ってほしいという運動がされていたそうです。また、発掘方法や調査後の処理をめぐっての文化財保存全国協議会による意義申し立てや、地元の人びとや関心を寄せる有志による抗議や交渉も行われたそうです。
残念ながら、東京最古の古墳かもしれない出現期の古墳とされる扇塚は、短期間の限られた調査が終了したのち、集合住宅建設により消滅しています。現在マンションとなった坂道の途中に「扇塚碑」と「拍子木塚碑」の2基の石碑が移設されており、1枚目の画像がこの石碑のようすです。
また、2枚目の画像は、この並びに移設されている、かつて扇塚の墳丘上に祀られていた稲荷社の石碑です。
わずかに残された古墳の痕跡ですね。。。

画像は、扇塚古墳の1号主体部から出土した「内行花文鏡」です。
大田区の郷土博物館で令和元年(2019)の秋に見学したものです。

同じく、扇塚古墳の1号主体部から出土したという「鉄鉇」と「鉄剣」。
<参考文献>
扇塚古墳発掘調査『扇塚古墳発掘調査報告書』
大田区立郷土博物館『博物館ノートNo.133』
大田区郷土の会『多摩川 44』
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- 2017/08/08(火) 00:22:39|
- 大田区/田園調布古墳群
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