
さて、前回は「十三塚」の1基であったといわれる世田谷区の「常盤塚」を紹介しましたが、この十三塚は杉並区にも存在したといわれています。今回は杉並区の十三塚を紹介しようと思います。
画像の右側、杉並区和田1丁目41番から画像左側、和田2丁目31番にかけて所在したとされるのが「十三塚」です。別名「和田塚」とも呼ばれたこの塚は、往時には高さ0.6mから1.2mの高塚13基が横一列に並んでいたといわれており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の和田村寺院(十三塚)の項には「東円寺ノ北ノ方ニアリ。其ノ中、西ニヨリタルハ頗ル大ナリ。高サ四尺バカリ。余ハイズレモ高サ二尺余。其ノ来由ヲ詳ニセス」と記されており、古くからこの塚が有名であったことがわかります。
東京23区内の十三塚といえば、旧上尾久村と下尾久村の村境(現在の荒川区東尾久7丁目あたり)にあたるところに所在したとされる「十三坊塚」や、北区赤羽西周辺に所在した「十三坊塚」が思い浮かびますが、これらはどちらも横一列に造られたいわゆる「十三塚」ではなく、古墳が点在した「群集墳」であるといわれています。しかし、この杉並区和田の十三塚に関しては、1213年の和田合戦の戦死者を葬った墓であるとか、文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた「江古田沼袋原の合戦」後に造られた「豊島塚」であるとか、また道祖神信仰や十三仏信仰から生まれた遺跡である等々諸説あるようですが、いずれも推定の域を出ず、何の為に造られた塚なのかはわからないようです。
ただし、昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』に掲載されている古墳地名表には「所在:和田本町983附近 種別:高塚 遺物:刀・槍(?) 微高:東京市町名沿革史・群在という・今なし」とあり、この時点ですでに消滅していたものの言い伝えとして残る古墳群の存在についての記述がみられます。また、十三塚の地点から北西に数百メートルほどの「本村原遺跡」からはA地点とC地点の2箇所から埴輪片が出土しており、高塚古墳の存在の可能性を示唆しています。この十三塚が古墳であった可能性は考え難いものの、少なくともこの周辺に複数の古墳が存在していた可能性は高いようです。

明治維新の際、上野の戦いに敗れた彰義隊の敗走者がこの和田村へたどり着いたそうで、この時に亡くなった数名の遺体を十三塚の傍に埋葬したそうです。(和田村にたどり着いた時には息も絶え絶えであった侍が、村人の手当の甲斐もなく息を引き取ったとする説や、彰義隊の敗走者が和田村でトラブルを起こし、数名が処刑されたとする説もあるが、真相は不明)
その後、大正時代になる頃にはこの周辺は鬱蒼と茂った山で、首吊り自殺者が出るなど、村の若者の肝試しの場所になった程の怖い場所であったようですが、大正10年頃、1基の塚の地主が土饅頭を取り崩したところ、人骨がリンゴ箱一杯に出土したそうです。当時の古老の中には彰義隊の遺体を埋葬したことを目撃した者が多数いたのでこの人骨が彰義隊の骨であることがわかり、この地主は別の残された塚に埋葬し、供養のため「石地蔵」と「十三塚之碑」を建てました。この塚は東円寺の所有地であったそうですが、その後、昭和10年頃になってこの土地を救世軍へ売り渡し、昭和37年頃には残されていた塚も取り崩されて宅地となり、人骨と石地蔵、石碑は東円寺へと移されたのだそうです。
画像が、東円寺に残されている「十三塚之碑」です。案内していただいたお寺の方の話によると、この周辺で十三塚のことについて覚えているのはこの土地に長く暮らす古老だけではないかということで、地元の人の記憶からも忘れられてきているようです。。。
<参考文献>
東京都杉並区役所『杉並区史』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
森泰樹『杉並郷土史業書4 杉並の伝説と方言』
森泰樹『杉並郷土史業書6 杉並風土記 下巻』
- 2015/03/18(水) 03:20:45|
- 杉並区の古墳・塚
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