
「三合塚」は、目黒区南1丁目に所在する3基の塚の総称で、現在は「目黒区立富士見台公園」という施設内に残存しています。『東京都遺跡地図』には目黒区の遺跡番号26番の”時期不明の塚”として登録されています。
この三合塚は古くからその存在を知られていたと考えられ、周辺地域の字名にもなっていました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の荏原郡碑文谷村の項には「三合塚 西南の方なり、塚の数三あるによりかく唱ふとぞ、或は三合塚とも呼り、もと塚の名なれども土人いつとなく此邊の字とせしとぞ、」と書かれています。また、その後昭和に入るとこの塚は古墳ではないかと考えられるようになり、昭和36年に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性を持つ」とされる12基のうちの1基として紹介されており、「現在富士見台児童遊園となっているが、富岡丘蔵の所有地内にある。この面積約460平方メートル、本墳は西寄りに大きい円墳形のもの、東寄りは小さい三角形に近い墳丘からなり、二墳と考えられてきたが、詳細に調査すると、両者の距離があまりに近すぎるのと、現在のように遊園地になる前の現状とを総合して、これは前方部を東にむけ、長さ20メートルほどの小形前方後円墳ではないかと考えられるようにいたった。そして、さらに積土の状態を検索して、大体前方部幅5メートル、後円部直径7 メートル、高さ今の路面より4メートル(現在3メートル)、前方部高さ3メートル(現在2メートル)ほどのものであったらしく、周湟の存否は不明であった。現在このくびれ部に小祠が建てられているが、おそらくこの古墳信仰に始まるものと考えられる。(後略)」と書かれています。
画像は、公園内の東側に所在する塚を北西から見たところです。かつてはこの小さなほうの塚が前方部であり、西側の大きな塚が後円部であると考えられていたようですが、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した塚であることがわかっています。また、周囲には堀を巡らせた跡も確認されていますが、どういう性格の塚なのか、また築造された時期などは不明であるようです。

三合塚は、明治のころまでは塚とその周囲が雑木林となっており、塚の頂上や横には多数のキツネの巣穴が存在したといわれています。「ひさご形」と考えられた墳形と周囲の濠もはっきりと残っていたようです。昭和31年に富士見台児童遊園として開園すると敷地内には砂場やブランコ、シーソーなどが造られ、塚上には2箇所に滑り台が造られたようですが、個の滑り台の設置により墳形はかなり損なわれてしまったようです。
画像は、5年程前の塚のようすですが、まだ木製の遊具が残されているのがわかります。現在は、塚に設置された遊具は全て取り払われているようです。。。

画像は、南西側にある現在の塚のようすです。後円部であると考えられていた塚ですが、昭和のころの写真を見るとかなり大きな塚であったようですが、かなり崩されて原形は留めていないようです。この2基の塚の間には、「三合塚稲荷社」の社殿が置かれていたようですが、現在は見られないようです。

2基の塚の遠景です。これが前方後円墳であれば右側が後円部、左側が前方部と考えられていたようですが、やはり古墳ではなかったようです。。。

画像は、富士見台公園内の北西側に所在する3基目の塚を北西から見たところです。
塚上には「祝 皇太子殿下 雅子妃殿下 ご成婚記念樹」と書かれた碑が立てられ、ハナミズキが植えられています。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黒区郷土研究会『目黒区郷土研究 第86号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版
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- 2016/08/16(火) 00:33:08|
- 目黒区の古墳・塚
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