
画像は、目黒区碑文谷2丁目に所在する「狐塚古墳」を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には、目黒区の遺跡番号25番に登録されている古墳です。
この古墳については、地元の郷土誌から多くの情報を得ることが出来ました。昭和33年(1958)に目黒区郷土研究会より発行された『郷土目黒』には
(前略)当初は五間四方の方墳で、深さ一間幅二間の空濠を繞らしていたそうであるが、現在は角がくずれて円墳に近くなつて居り、濠も次第に埋め立てられて、深さ幅とも一尺程度の溝になり、素通りする人々には、樹や雑草が生い茂つている高さ一間位の小丘としか見られないが、すくなくとも古墳なら千参百年、単なる墳墓としても、七百年を経た土豪の塚であることは間違いないから、目黒に残る数すくない此の種の遺跡として、現状の保存を切望する。 と書かれています。学術的な調査が行われていないこの狐塚が『東京都遺跡地図』に登録されており、「方墳?」とされている背景には、このあたりの郷土誌の記述が背景にあるのかもしれません。
その後、昭和46年に発行された『目黒百景』には
碑文谷2丁目にあります。古墳時代の末期(5~6世紀)の円墳と推定されています。もとは直径10メートル高さ3メートル以上、周囲に堀をめぐらしたあとがあり、形の整ったものでありましたが、現在は一部がけずりとられて、その形はくずれています。明治のころまではキツネがすんでいたので、狐塚とよばれていますが、古墳を狐塚と呼ぶことは各地にみられるものです。 と書かれています。戦後の空中写真で確認したところでは、昭和30年代から40年代にかけて周辺の開発が進行する中、この狐塚の周囲は最後まで畑地として残されていたようですが、昭和50年代に、現在のように集合住宅に取り囲まれてしまったようです。
昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』では、「一部遺存」、「墳丘下部が高さ50cm程残るのみ」と書かれています。

古墳の周囲では、集合住宅が建て替えられたりと変化が見られるのですが、発掘調査の報告書等を見つけることはできませんでしたので、学術的な調査は行われなかったのかもしれません。もしこの狐塚が古墳であれば、目黒区内で唯一墳丘の残る古墳ということになるのですが、塚の性格や出土品等の詳細が不明である現状は残念です。
かつては周溝らしき堀が存在したというあたりから推測すると、狐塚は古墳だったのではないかと思われますし、この地域の歴史や立地から考えると古墳ではなく塚だったのではないかとも思えます。
まだまだ謎の多い狐塚古墳です。。。
<参考文献>
目黒区郷土研究会『郷土目黒 第二輯』
目黒区教育委員会『目黒百景』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2018/06/12(火) 23:52:34|
- 目黒区の古墳・塚
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