信州で史跡公園や観光地を歩いていると、地元の人が「こんにちは」と声をかけてくれるのです。シャイだった少年時代は「あ、どうも…」という感じでなかなかなじめずにモジモジしていたものですが、大人になった今では、やっぱり長野は良いなあと思う理由のひとつです。
さて、画像は「235号墳」です。規模は不明ながら発掘調査により6世紀後半の築造と推定される円墳です。墳丘の半分は崩されており、石室の裏側が露出しています。
こちらから見ると円墳らしい景観が保たれているように見えますが…
実は無袖形の横穴式石室がこんな姿で保存公開されています。
近くでみるとこんな感じ。石室の裏側を観察できるようにあえて墳丘の半分が失われた状態で公開されているそうですが、大地震がきたら大丈夫かなと心配になってしまいますね。
ここからはエントランスゾーンの中でも「鳶岩単位支群」と呼ばれる支群で、画像の「第37号墳」はこの鳶岩単位支群に含まれる古墳です。なぜかこの古墳には説明板が設置されていなかったのですが、「鳶岩単位支群」に対する説明板が設置されていたので紹介しようと思います。
大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群
31・32・33号墳が分布するこの地区は、「大室古墳群 大室谷支群 鳶岩単位支群」と呼ばれています。史跡の入口周辺で整備を行った古墳は「大室古墳群 大室谷支群 村東単位支群」と別の単位支群(古墳のまとまり)に分けられ、互いに少し離れています。また、蔦岩単位支群には山袖部に古墳が造られるという立地や墳丘に土のみを用いた「盛土墳」があることなど、他地区ではみられない特徴があります。
史跡整備事業では、史跡の入口となるこの一帯を「エントランスゾーン」と呼称し、「大室古墳群の野外ガイダンス」として、古墳に親しんでいただくことを目的に整備を行いました。古墳は整備以前の状況を踏まえて、前から、横から、上から、盗掘坑からなど、様々な位置から見学できるようにしました。また、ゾーン内の樹木は伐採し、後世に造られた石積みなどは解体して、古墳が造られた当時の地形を再現しています。
この地区では、植林された杉林の中に、近代以後の果樹園や桑畑のために造成された段々畑と一体化した古墳の状況を整備しました。古墳が造られた後、様々な土地利用によって古墳の形態が変化していく様子を示しています。古墳時代の地形を再現したエントランスゾーンの他地区と景観が大きく異なりますが、この両者を比較してみることで、悠久の時の流れを感じることができるのではないでしょうか。
長野市教育委員会
画像は「31号墳」です。7世紀前半の築造と推定される、直径約14mの円墳です。整備前には露出した横穴式石室の上に小屋が建てられており、墳丘は後世の二次利用により大きく改変されていたそうです。こうしてみると、どこまでが元々の古墳でどこからが段々畑の石積みなのかわからなくなりますね。笑。
なんとこの古墳は大室古墳群に多くみられる積石塚ではなく、土による盛土墳なのだそうです。
画像は「32号墳」です。この古墳も近代以降の開墾により大きく改変されています。発掘調査により7世紀前半の築造と推定される、直径約10mの円墳です。横穴式石室の奥壁に盗掘坑が開口しており、内部を見学することが出来ます。
画像は「33号墳」です。これも、近代以降の開墾により段々畑の石積みと一体化していた古墳で、横穴式石室が露出しています。7世紀前半に築造されたと推定されており、直径約10mの墳丘は石室の石の間に固まる特殊な土により補強されて復元されています。
敷地内には「大室古墳館」が建てられています。入場無料で、無人ながらも古墳についての解説がありパンフレットも置かれています。
私が訪れたのは春先でしたが、ほとんど日陰のないエントランスゾーンのあまりの暑さにバテてしまい、この古墳館の自動販売機の飲み物に助けられました。笑。
エントランスゾーンに公開されている古墳はこれですべてです。次回、「大室古墳群、大室谷支群」の最終回、大室古墳群 その5(ムジナゴーロ編)に続く。。。
- 2015/06/01(月) 01:08:01|
- 長野県の古墳・塚
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