
杉並区下高井戸3丁目には「お屋敷山古墳」と呼ばれる古墳が存在したといわれています。現在は杉並区立向陽中学校の敷地となっているこのお屋敷山古墳は『東京都遺跡地図』には未登録となっていますが、巨大な前方後円墳であったという伝承も残されており、昭和初期の郷土誌に記述を見ることが出来ます。
昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』の「区内発見古墳地名表」には「下高中学校敷地 高塚 前方後円墳? 湮滅」とあり、また「お屋敷山古墳 下高中学校敷地に存在したといわれる前方後円墳(?)は周湟を持つたものといわれる。この古墳上に嘗つて家屋が建てられたことがあつたと伝えられ、俗にお屋敷山と称された。その後、大正年間に石槨が掘り出され、埋蔵品は悉く散逸したと語られている。東京附近には、珍しく立派な古墳であつたので、府で史蹟に指定する予定であつたとも聞く。(『杉並区史』139ページ)」と書かれています。これは恐らく、昭和28年(1953)に杉並区史編纂委員会より発行された『西郊文化』の第3号に掲載された下高井戸の回顧録の記事が元になっていると思われますが、この記事について、平成元年(1989)に杉並郷土史会より発行された『杉並風土記下巻』にさらに詳しく取り上げられています。
お屋敷山古墳
『旧杉並区史』の区史編纂委員会が、昭和28年に発行した『西郊文化』第三輯に、元東京府史蹟調査員、宗源寺住職・富田啓温氏が「大正初期の高井戸」と題して書かれた回顧録が掲載してあります。その文中に
「比較的に近くはあったが、今の下高中学(下高井戸3丁目24番、向陽中学校)の場所に前方後円墳があり、後円の部に桃等が植えられ、小さな丘を処女の乳房のように盛り上げていた。この古墳は、私が東京府の史蹟係時代に調査した事があったが、環溝を囲らせた見事な物で、惜しむらくは全面的に耕作され、後円の部分が低くなっており、何かの折りに(この上に家を立てたと伝えられる。俗にお屋敷山という)石槨部が発掘されて埋蔵品は悉く取り出され、散逸して終ったと、話して呉れた古老があったので、史蹟指定を延していたのだったが、次に気が付いた時にはこの土は全部平められ、田に置土されて終っていた。まだ工事は終ってはいなかったけれ共既に如何とする事が出来ず、その内にグランドになり、中学の敷地になった。だからここに前方後円墳があったことだけ記して置く」の記述があります。
地元には、「江戸時代の初め、甲州街道道沿い(下高井戸2丁目10番?)に、一町余りの拝領地を持った幕府御馬預役、二百俵扶持の御家人・加藤(初代権左衛門重勝)さんが、古墳?の南側に別荘を建てて風流を楽しまれたので、其処を加藤屋敷、古墳?をお屋敷山、通路の橋を加藤橋と呼んだ」という伝承があります。
『新編武蔵風土記稿』に、この古墳の記述がありません。なぜか?古墳はなかった。あったが村役人は知らなかった。それとも知っていても、幕府御家人の邸内にあったから、自分等の権限外と考え、郡代屋敷に提出した村明細帳に記載しなかった、の何れかでしょう。(『杉並風土記 下巻』366~368ページ)


当時、史蹟指定される可能性もあったといわれるこの「お屋敷山古墳」ですが、この『杉並区史』と『杉並風土記 下巻』以外に詳しい記録は見つからず、当時の写真や遺物の記録を見つけることはできませんでした。ただし、古地図によりこの周辺の地形を確認すると、古墳の痕跡ではないかとも思われる形状を見ることが出来ます。明治末年製の『東京府豊多摩郡高井戸村全図』にはまるで前方後円墳の周溝に沿うかのような形状の水路(道路?)が描かれていますし、昭和12年の『1万分の1地形図』にも前方後円形の塚状地形が描かれています。しかし、昭和22年の米軍撮影の空中写真で確認すると、すでに盛土は削平されているのか、古墳らしき形状を見ることは出来ません。
これが古墳であるならば所在地は恐らく現校舎のあたりで、『東京府豊多摩郡高井戸村全図』に描かれている水路が周溝と考えると、100mには満たない、恐らく70〜90mくらいの前方後円墳であったのではないかと想像しますが、もちろんこれは素人考えで確証はありません。
果たして本当にこの地に前方後円墳が存在したのか、とても気になるところですね。
<参考文献>
杉並区市編纂委員会『西郊文化 第三号』
東京都杉並区役所『杉並区史』
森泰樹『杉並風土記 下巻』
- 2015/07/06(月) 03:36:03|
- 杉並区の古墳・塚
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