
杉並区梅里2丁目に所在したとされるのが「松ノ木の大塚」です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、数多くの言い伝えが残されており、古墳であった可能性も高いと考えられる伝説の塚です。
この「松ノ木の大塚」は、明治維新の頃には墳丘に登るのが不可能なくらい一面に茨が生えていたそうですが、明治12年の地租改正の頃に土地の所有者が茨を伐り開いてくぬぎやかしの木を植え、お稲荷様の祠を祀りました。その後、墳丘に階段が設けられて登れるようになった祠は「大津賀いなり」と呼ばれて親しまれたそうです。塚は高さ6〜7メートル、底面積60坪くらいの小山で大正の頃までは存在していたようですが、その後の開発により削平されて消滅、また大津賀いなりも、どこかの神社に合祀されたのかそれとも移設されたのか、その後の詳細についてはまったくわかりませんでした。
この塚について、杉並郷土史会より発行された『杉並区史探訪』には地元の古老の証言が掲載されています。
小学生の頃は塚の周辺でよく遊びました。石鏃や石器の破片を見かけましたが、気にとめず、大正の末頃に塚を調査に来られた鳥居龍蔵先生から、鏃、石斧の破片だと教えられましたので、少しは拾い集めて置いたのですが、何時の間にか紛失してしまいました。鳥居先生から「塚は古墳だから保存して下さいよ」とお聞きしたのですが、急激に宅地の需要が増え、遊ばせて置くのは勿体ないので、昭和七年に父の久兵衛さんが取り崩し平坦にしました。塚は焼け土と灰土が何層にも重なっていて、土中から完全な杯状の素焼土器一個と、ボロボロに錆びついた馬具の鎖のような長さ一メートル位のものが出土しました。私は鳥居先生のお言葉通り円型古墳だったと思います。古墳を築く時、原野を焼き払って、穴を掘り遺骸を納め、周辺の土で盛土したので、焼土と灰土の層が重なって出来たのではないでしょうか?
塚跡地は、現在弟の伝五郎さんの所有で、大部分は三井鉱山(株)の社宅の庭になり、南側の一部が道路になって居ります。四十六年に下水工事で道路を掘りましたので、何か出ないかと注意して度々見に行きましたが、何も出土しませんでしたけれど、地表から三メートル位の土は、地山(関東ローム層の赤土)と異質の土で、明かに掘り返された形跡が認められました。(『杉並区史探訪』28~29ページ)
鳥居龍蔵氏が杉並区内の古墳を調査に訪れていたというのはこの記事により初めて知りビックリしましたが、この調査の記録は今のところ見つからず、詳細は分かりません。しかし、鳥居龍蔵氏がこの塚を古墳であると判断していたというあたりは興味深いところですし、塚の盛土が焼け土と灰土が何層にも重なっていたという古老の証言は、ちがった種類の土を交互に敷いてつき固めていく「版築」の手法を連想させます。「松ノ木の大塚」が古墳であった可能性は充分に考えられるのではないかと思いますがいかがでしょうか。。。
さて、この「松ノ木の大塚」には、塚に棲みついていた動物についての昔話が多く残されているようです。杉並郷土史会より発行された『杉並区史探訪』には、地元の古老の体験談が書かれています。
松ノ木の大塚には、ゴマ白の狐が棲んでいました。余程昔から棲んでいたらしく、村の人は”大塚の白狐様”と敬って居りました。堤粂次郎さんのおばあちゃんが、大塚の白狐様に鶏を盗られましたので、怒って古むしろを狐穴に差し込み穴をふさぎましたら、仇をされて残った鶏を皆盗られてしまいました。親から「大塚の白狐様にいたずらしてはいけないよ」と言われたものでございます。
私が七、八才(大正二年)頃には、塚には狐と狸が棲んで居りました。馬橋や成宗、田端の年寄りが、狐に憑かれたと言って、赤飯と油揚げを持参して狐穴の傍に供えて拝んでいるのを何回も見ました。祖母と両親が「どこどこの誰々さんに、ウチの狐が又憑いたので、おこわ(赤飯)を持って来たよ」と話合いながら、私に「狐が食べるのだから、そばへ寄ったり、さわってはいけないよ」と、言い聞かしてくれました。
大正七、八年頃の大塚の狐穴には、狸が棲んでいて、冬の暖かい日には狸の親子が、日向ぼっこをしているのをよく見かけました。植木屋の吉田辰五郎さんは、大塚のそばの植木畑に、深さ六尺位(約二メートル)の潅水用の井戸を掘り、フタ代りに「キビガラ」を覆せて置いたら、或る日狸が落ちて暴れているのを発見し、皆仕事を放っぽり出して大騒ぎの上生け捕りにしました。随分大きな狸だったので、皮が拾円で売れました。当時この辺の土地の値段が一坪二円五十銭位でしたから、大変な獲物だった訳です。早速一パイ飲もうと狸汁で盛大な酒盛りをしましたが、”人を化かす狸を化かした”と当時としては村の大ニュースでした。(『杉並区史探訪』26~29ページ)
画像の道路の左側あたりがこの「松ノ木の大塚」の推定地であると思われます。正確な場所まではわからなかったのですが、少し道路がクランク気味に曲がっているのが怪しい!と思って撮って置いた写真です。
それにしても、55万人もの人々が暮らすこの杉並区内に野生の狐や狸が棲息していたとは、開発の進んだ現在では全く想像ができませんが、杉並にも牧歌的な時代があったんだなあと、なぜか懐かしい気持ちになるお話ですね。。。
<参考文献>
杉並郷土史会『杉並区史探訪』
- 2015/07/14(火) 08:51:23|
- 杉並区の古墳・塚
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