
画像は、杉並区善福寺1丁目にある「富士塚」を南西から見たところです。杉並区内に現存する富士塚としては唯一のもので、『東京都遺跡地図』には未登録の塚です。
この富士塚は、「井草八幡宮」の北側、参拝者用の駐車場の横に浅間神社の祠とともに祀られています。かつては「井草八幡宮」の現社務所の西側にあったそうですが、昭和50年(1975)に現在地に移築されているそうです。従って、古墳を流用したような可能性はないようですが、杉並区内では唯一残された貴重なマウンドの残る塚ということで今回紹介してみました。

画像は、富士塚を北から見たところです。
敷地内には井草民族資料館により立てられた説明板が設置されており、富士塚についての解説が次のように書かれています。
富士塚
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。
富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。
富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。
以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。
旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。
平成十六年正月吉日
井草民族資料館

画像は、富士塚を北東から見たところです。手前に見えるのが浅間神社の小祠で奥に見えるのが富士塚です。周囲は道路と駐車場に囲まれているので基本的にどの角度からも見学することは出来ますが、駐車場は閉じられていることが多いようです。
実はこの塚については以前より存在は知っていたのですが、杉並区内には古墳は存在しないと思い込んでいましたし、富士塚は「ボク石」で固められて石造物が立ち並んでいるという固定観念があったためにまさか富士塚であるとも思わず、一体何の塚だろうと思いながらも長い間スルーしてしまっていました。その後、散策中に偶然立ち寄った杉並区成田東5丁目の「成宗弁財天社」にかつて富士塚があったことを知り、杉並区内の富士塚について調べてみたところ、この井草八幡宮内の塚も富士塚であることを知り、あらためて見学に訪れました。

築造当時の富士塚は井草八幡宮の境内に所在していました。画像がその「井草八幡宮」です。青梅街道に面する朱塗の大鳥居をくぐり参道を進むと、10,000坪もある広い敷地内には今なお多くの文化財が残されています。ちなみにこの青梅街道の南端にはかつては幅六尺ほどの千川用水が流れており、用水の橋を渡って鳥居をくぐったのだそうです。

画像右側の社務所の西側にあたる、中央の巨木の立つ場所がかつての富士塚の所在地です。こうして見ると、こんなに広い敷地がありながら境内の外の駐車場の片隅に追いやられてしまった富士塚がちょっと可哀想な気もしてきますが、どうして移築されることになってしまったのでしょうか。。。

画像が、現在の社務所の西側にあたるかつての富士塚の所在地のようすです。まだわずかながら盛土が残されており、通常富士塚の五合目に置かれている「小御岳大権現の石塔」や「庚申塔」に富士塚の面影を見ることが出来ます。
この移築する以前の旧地が、古墳など元々あった塚を流用して富士塚を築造した可能性はあるのではないかと考えたのですが、これはよくわかりませんでした。

敷地内には、富士講中により奉納された燈籠も残されています。この燈籠は丸を講資料とともに平成23年2月9日に杉並区の有形民俗文化財に指定されています。杉並区教育委員会により設置された説明板が立てられており、次のように書かれています。
井草八幡宮富士講燈籠並びに丸を講資料 二一点
この石燈籠二基は、江戸時代後期、「丸を講」という富士講が井草八幡宮と浅間神社に奉納したものです。ここからみて左側の燈籠には、上・下井草のほか、上荻窪村(杉並区)、上・下石神井村(練馬区)、保谷村、田無村(西東京市)、成子町、内藤新宿(新宿区)など広範囲にわたる寄進者101名の名が刻まれ、右側の燈籠は上井草先達の「登山三拾三年大願成就」の記念となっています。「丸を講資料」は、講員の方が井草八幡宮に寄贈した富士山を登拝する際の装束や登拝記録です。現在は消滅してしまった区内の富士講の実態を示す貴重な資料です。

古地名を冠して遅野井八幡宮とも称されるこの「井草八幡宮」の御祭神は八幡大神だそうです。寛文四年(1664)に今川氏?により改修が行われたというこの井草八幡宮の本殿は、杉並区内最古の木造建築なのだそうです。境内地付近から発見された数千年以前の住居趾からは縄文時代の土器が出土しており、「井草式土器」は広く知られています。この地域の長い歴史を感じますね。。。

境内には、源頼朝公お手植えの松があります。鎌倉時代初頭の文治5年(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の討伐に向かう途中、この井草八幡宮に立ち寄り戦勝を祈願しています。その後、奥州藤原氏討伐に成功した頼朝公は、建久4年(1193)に雌雄二本の松を奉献しています。その後、に雌松(赤松)は明治時代初頭に枯れてしまいますが、雄松(黒松)は東京都の天然記念物に指定されて偉容を誇っていたそうです。その後の昭和47年1月、残された雌松の二股に分かれた大幹の一方が強風により折れてしまい、それ以来急速に衰えて枯れてしまったそうです。
現在の松は末流にあたり、二代目の「頼朝公御手植の松」として大切に育てられています。神門の内側には初代の松が輪切りにされ、衝立として保存されています。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
学生社『杉並区史跡散歩』
現地説明版
- 2015/07/16(木) 23:45:59|
- 杉並区の古墳・塚
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