
画像は、杉並区成田東5丁目にある「成宗弁財天社」を南東から見たところです。ここにかつて「成宗富士」と呼ばれる富士塚が存在したそうです。塚は大正7年頃に取り壊されて消滅しており、現在その姿を見ることは出来ませんが、当時「泥富士」とも呼ばれた塚は高さ12メートル程もある大きな富士塚であったようです。

画像は、「成宗弁財天社」の境内のようすです。敷地内には杉並区教育委員会による説明板が設置されており、この「成宗富士」についての記述も見ることが出来ます。
成宗弁財天社
当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼陀羅像です。
近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣り等の際には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
この弁天池は天保11年(1840)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継地として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で、富士講のための築山をつくりました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています。
昭和60年3月
杉並区教育委員会

杉並区内に高さ12メートルもの富士塚が存在したとはまったく知りませんでしたが、その姿を見ることが出来ないことは残念に思います。この周辺には「儀右衛門塚」や「お釈迦塚」といった伝承に残る塚が存在したといわれており、この「成宗富士」が元々あった古墳か塚を流用して築造した可能性も考えましたが、詳細はわかりませんでした。。。
<参考文献>
杉並区立郷土博物館『炉辺閑話 杉並区立郷土博物館だより No.49』
現地説明版
- 2015/07/21(火) 01:09:58|
- 杉並区の古墳・塚
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こんにちは。
「今昔マップ」でこの辺りを見ると、初期の地形図では神社の隣にかなり大きな池があるのが見えますね。12mもの高さに土を積み上げるには、裾野も相当に広くなりますから、それよりは水深が浅いであろう池の方はそれ以上の広さがあってもおかしくないですね。
ただ、それでも足りない程の土砂が塚に積み上げられていたとすれば、確かにその下には別の塚が最初からあった可能性もありそうですね。
- 2015/07/21(火) 08:37:32 |
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- kanageohis1964 #-
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kanageohis1964さま
まったく同感で、池を掘った土だけで12mもの塚を造れただろうかという疑問と、この成宗弁財天社の後ろ側は一段高い台地の淵になっていて、古墳を築造する立地条件としても満たされているように思ったのですが。。。
私はお屋敷山古墳は単独墳で、善福寺川周辺に群集墳が点在していたのではないかと想像しているのですが、なかなか証拠を見つけるのは難しいですね。
- 2015/07/21(火) 23:04:25 |
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- ご〜ご〜ひでりん #hzwp2T5Q
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あわわわ…荻窪にあるのは知っていたのですが、ここは知りませんでした。
暑さにやられて中々足を運べずにいたので、近々行ってみようと想います。
結構古墳と近い所に弁財天ってありますねー。
- 2015/07/25(土) 01:08:00 |
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- 紅一点 #-
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紅一点さま、こんばんは。
まったく毎日殺人的な暑さが続きますね。笑。
普通の名称の神社の中にも、恐らく合祀されたものなのか、弁財天はかなり多く目にする気がします。
- 2015/07/25(土) 23:00:25 |
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- ご〜ご〜ひでりん #Z9kZA9vA
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