
画像は大田区西糀谷3丁目にある「粷谷小学校」を南から見たところです。この敷地内にかつて存在したといわれているのが「西糀谷大塚」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号160番の古墳(円墳)として登録されています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「高一丈三尺餘リ、九尺四方許ノ間ニ盤レリ。寶永四年富士山焚タリシトキ雨散セシ砂ヲカキヨセテ塚トセリト云傳フ。此説オホツカナシ。別ニ故アルベシ。除地一畝二十六歩ニ及ベリ」と、この塚の言い伝えについて記述を見ることが出来ます。また、昭和26年に東京都大田区役所より発行された『大田区史』にも、「これは宝永四年に富士山が噴火したときに降つた灰をかきよせて塚にしたものとの伝説があるが、「この説おぼつかなし、別に故あるべし」とある。火山灰を耕地の中に百年も留めて置く理由は考えられないから、貝塚と推定してよいと思う。」と書かれています。
大正時代にこの周辺地域を調査した大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理第47巻 第4号 65ページ)』の中で「往古は相當高き圓墳なりし事を推察し得るも、遺物の微すべきものなし。土人の説は風土記編纂者も疑ひたる如くおぼつかなきものなれども、余は武蔵國都築郡方面にてもこれと同様の説明ある古墳を見たり。されど今はその解釋に對して何等の知識も有せず。他と同様古墳の一としてここに掲げおく。附近の畑地に貝殻散布す。」と、この塚は古墳ではないかと推察しています。
この粷谷小学校の敷地は以前は「浜竹天祖神社」の境内地であり、校庭の中央あたりに位置していた本殿の西側に古墳が存在したといわれています。昭和12年に羽田第二小学校(粷谷小学校の旧名)拡張のために神社は同じ西糀谷3丁目の現在地に移転され、古墳は崩されて消滅しています。残念ながら学校の校庭となった跡地に古墳の面影を見ることは出来ませんでした。
ちなみに「浜竹天祖神社」の現在地は「薬師塚古墳」が所在したとされる場所でもあります。。。
<参考文献>
東京都大田区役所『大田区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
粷谷今昔記編集特別委員会『粷谷の今昔』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
- 2015/08/11(火) 00:47:50|
- 大田区/その他の古墳・塚
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