「蒲田八幡神社境内古墳」

画像は、大田区蒲田4丁目にある「蒲田八幡神社」を南から見たところです。『東京都遺跡地図』には、この神社の境内に大田区の遺跡番号98番にあたる「蒲田八幡神社境内古墳」という名称の古墳(円墳)が登録されています。
旧蒲田新宿村の村社で、旧別当は妙安寺、祭神は誉田別命であるこの「蒲田八幡神社」は、かつて敷地内に古墳が存在したという伝承が残されており、境内に立てられている「蒲田八幡神社由緒」にも記述を見ることができます。
蒲田八幡神社由緒
祭神 譽田別命
例祭 八月八日
抑當社は、宇佐八幡宮を勸請せる由緒深き神社にし
て、其の年暦を傳へざるも更に古社なることは、境
内小圓墳傳説等史實の明示するところなり。
案ずるに、當地旣に新石器時代より住民の生活する
ところとなり、縄文式文化とともに原始信仰の發祥
をきたし、農耕の興りし彌生式文化時代を經て、
齋場の形作られし聖地なり。
慶長年間、新宿分村に際し、行基作の神體三座の
中春日の像一體を薭田神社より分ち、鎮守神體
とせしに神霊あらたかなりしと傳ふ。
明治維新となり、神佛分離により春日の像を別當
妙安寺に安置す。 昭和二十年四月十五日
戰災に遭遇せるも忽ち再建の氣運勃興せり。
戰後、復興し行く蒲田の中心なるを以て、昭和二十
四年八月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と稱へ、
氏子祟敬者の奉賛に依り昭和三十三年八月八日御社
殿復興遷宮祭を執行す。
昭和三十九年八月八日
宮司 上野喜信
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「古塚 社地に入て右の方にあり、塚上に老松四根ありて、廻りに注連をはり置けり、土人に問に昔何者かが神霊あるものを埋めし印の塚なりといひ伝へて、塚の辺を蘆毛の馬に乗て過るときは、必落馬すといへども其故をしらずといへり、隣村北蒲田栄林寺の言伝へによれば、彼村八幡宮神体三座の中、春日の像一軀を分ちここに移して当村の鎮守とせしに、神霊あらたにして、土人の信仰なきものにはまま祟りありしにより、恐れて此地に埋みしといふ、此説うけがたけれども、しばらくしるせしなり。」とあり、この塚の言い伝えについて記されています。また、『江戸名所図会』にはこの薭田神社の境内に塚状のマウンドが描かれています。
大場磐雄氏は『武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡(歴史地理 第47巻 第4号)』の中で「境内社殿に向つて右手に小祠を安置する丘壟あり。(中略)今は高さ一間余の小圓墳なり。勿論何等の遺物を發見せず。ただこの所説に若干の價値を認むるのみ。葦毛の馬に關する研究は、柳田國男氏の甞て研究せらるるあり。民屬學上には一資料を供すべきも、余はただこれが諸國に共通する古墳に對する Jaboo(禁忌)の一現象として解しおかむ。」と記述しており、古墳の存在が想定されています。
確かに、古墳や塚を守る為に後世に作られた禁忌(タブー)の言い伝えは多く存在するようですが、それにしても葦毛の馬でここを通ると必ず落馬するというのは興味深い事例です。

鳥居をくぐって右側には神輿庫が建てられています。『新編武蔵風土記稿』にある「社地に入て右の方にあり」という記述からすると、この神輿庫のあたりが古墳の跡地とも考えられますが、古墳の痕跡を見ることはできません。

画像は、蒲田八幡神社境内にある「天祖神社」を南から見たところです。大場磐雄氏の「境内社殿に向つて右手に小祠を安置する丘壟あり」という記述からすると、古墳が存在したのはこの天祖神社のあたりである可能性が高いように思いますが、祠の場所にマウンドを見ることは出来ません。
<参考文献>
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
関俊彦「大田区の遺跡―吞川のほとりに住みし人たち―」『史誌 第10号』
現地説明版

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