
「承位明神塚」は、大田区西蒲田6丁目に所在したとされる塚です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号198番の”時代不明の墳墓”として登録されています。
旧女塚村には、前回の「女塚古墳」で紹介した新田義興伝説にまつわる「女七塚」の伝説が残されています。昭和8年(1933)に蒲田町史編纂會より発行された『蒲田町史』にはこの「女七塚の伝説」について次のように書かれています。
女七塚の傳説 別項大町桂月氏の文中、竹澤が家の者に殺されたる少將に、七人の侍女があつた、これもまた少將と同じ運命の刄に刎ねられ、その生首を谷川に押流した、それが女塚の地に漂着したので、里人ひとしくこれを憐れみ、生首の漂着した地點に是れを埋めて塚を築いた、その數すべて七つ、これを女七塚と呼んだ、今の女塚は、女七塚のなまつたものだと云ふのである、而して女七塚の位置は左の通りである。
一、自従大明神(少將)所在 逆川 三百番
二、承位明神 同 三百十四番
三、白旗明神 同 三百十二番
四、浅間明神 同 三百六十番
五、白山明神 同 内人耕地 二百十八番
六、星谷明神 同 三百番
七、村山明神 同 川内 四百二十九番
また、同書には「八ツ塚の伝説」として次のようにも書かれています。
八ツ塚の傳説 生首の漂着した地點に是れを埋めて塚を築いた、その数すべて七つ、とあるを以てみる時は、今の女塚は少將局に侍りたる女七人の塚の一つの内の塚と云ふことになる譯である。少將局の塚を數ふれば、八つ塚となり、考ふべきことなり、多摩郡の鎌田村にも女塚と云ふ小墳ありと聞けば、或は是れが少將局の女塚にあらざるか、亦考ふべきなり、又生首を谷川に押流した、とあるも其の塚の配置よりみて、當時の川の流れはいづこなりや、彼れ此れ比較研究の必要あることと思ふ。(『蒲田町史』78ページ)
大田区教育委員会より発行された『大田区の文化財第30集』では「承位は丞位のことで、守・介・掾(丞)・目の順位に従えば少将であるところから、義興の愛人・少将局を祭神にしたのではないか、との説がある。」とも書かれていますが、やはりこれらの説が史実であるかどうかは微妙で、いずれも伝説の域を出ないようです。。。
画像は、「承位明神塚」が所在したとされる西蒲田6丁目(旧逆川314番地)周辺のようすです。画像の右側あたりが塚の所在地であるようですが、この「承位明神塚」に関しては埋葬施設や出土品の伝承はなく、塚は宅地化により削平されて消滅しているため、どういう性格の塚であったか詳細はわかりません。「女塚古墳」からは土師器が出土したとされており、この「女塚七塚」と称されていた7基の塚は古代に築造された古墳だったのではないかとも考えられているようです。
<参考文献>
蒲田町史編纂會『蒲田町史』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/10/06(火) 02:34:32|
- 大田区/その他の古墳・塚
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