
大田区鵜の木1丁目、光明寺本堂右手に残る上墓(ウワンバカ)地区に残存するのが「光明寺荒塚古墳1号墳」です。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号90-2番に登録されている古墳です。
この周辺地域には、新田義興の墳墓であるとされる「新田義興塚」、義興公とともに矢口の渡しで討死した従者が祀られているとされる「十騎明神塚」や「妙蓮塚」、義興公を荼毘にふした灰で築いたとの伝承がある「灰塚」のほか、「大桜大塚」や「女塚古墳」など、新田義興公にまつわる伝説に関係する古墳や塚が数多く残されており、これまでにも紹介してきましたが、この古墳と、古墳の所在する光明寺にも新田義興伝説が残されています。
このお寺の敷地内にある「光明寺池」は昔の多摩川の名残で、新田義興が死んだのは矢口とこの池のあたりであるといわれており、また新田義興が切腹したときにほうり投げた内蔵が引っかかったのが光明寺の一番高い木で、そこにはよく雷が落ちるのだともいわれています。また、学生社より発行された『大田区史跡散歩』には、光明寺にある「十一面観世音菩薩立像(雷留観音)」について、「新田義興が謀殺された後の延文4年(1359)頃、その怨霊の雷火がしばしば起こり、人びとをおびやかしたので、鵜ノ木村の浄心という者がこの観音に”かみなりどめ”の祈願をしたところ、それ以来おさまったので、世に雷留観音とよぶようになったとも伝える。また、この観音が安置されていたお堂が、義興の怨霊に追われて江戸遠江守が逃げこんだ辻堂であるとする伝説もある。」とも書かれています。
また、「荒塚」と呼ばれる古墳にも新田義興にまつわる伝説があり、義興公を謀殺した江戸遠江守は義興にたたられて雷にうたれ落馬、もがき苦しんだ末に死んだとされていますが、その江戸遠江守や、義興をあざむいた竹沢右京亮の墓がこの塚であるという説や、江戸氏一族の墳墓であるという説も残されているようです。
画像は「光明寺荒塚古墳1号墳」を東から見たところです。この古墳は、平成5年2月から翌6年8月にかけて都道環状8号線の建設工事に関連した発掘調査により古墳であることが確認されています。規模は直径23.4m、高さ4mの円墳で、墳丘に円筒埴輪が並べられていたと考えられています。

画像は、「光明寺荒塚古墳1号墳」の墳頂部のようすです。石碑が建てられています。
私が上京したころの環八はこの光明寺の一帯のみが未開通で、横っちょの細い道を迂回したものですが、まさか当時発掘調査が行われていて、保存された古墳を見学に来ることになるとは思いもしませんでした。これも時の流れですね。 当日は、お寺の方に声をかけて見学と撮影の許可をいただけました。ありがとうございました。。。
<参考文献>
学生社『大田区史跡散歩』
東京都大田区『大田区史 資料編 地誌類抄録』
大田区教育委員会『大田区の文化財第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』
東京都大田区「鵜の木光明寺の発掘調査」『大田区史研究 史誌』
環8光明寺地区遺跡調査会『環8光明寺地区遺跡調査報告書』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2015/11/18(水) 01:59:29|
- 大田区/鵜の木久が原古墳群
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