
府中市の「№4-F遺跡」は、発掘調査が行われていないために古墳であると断定はされていないものの、古墳ではないかと考えられている遺跡です。昭和50年(1975)に行われた立会調査により存在が確認されており、調査当時石室の存在が推定されていたようです。周辺地域では発掘調査により多くの古墳の周溝が密集して検出されていることから、このF遺跡が古墳であった可能性は高いように思われますが、残念ながら開発により墳丘は削平されて消滅しています。
画像は、府中市美好町の古墳の跡地と思われる地点を南東から見たところです。駐車場となっているあたりが古墳の跡地ではないかと思われますが、残念ながら痕跡を見ることは出来ません。。。

府中市美好町から分梅町周辺ではこれまでの発掘調査により古墳と認定されるものが数多く確認されており、高倉古墳群と呼称されています。現在30基前後の古墳が確認されており、今後も新たな古墳の発見が想定されています。
画像は府中市美好町の個人宅地内に祀られている神明様の祠ですが、この屋敷神にも古墳の言い伝えが残されています。このお屋敷の南の畑の中央にはかつて一坪程の塚があり、第二次大戦終戦前に桑畑を普通の畑にした際に塚も平らにしたそうですが、その後不幸が続き、祈禱師の話に依り古戦場の霊供養を決意し、昭和38年(1963)、土地の神として祀ったといわれています。
お屋敷の南には、今回紹介したF遺跡のほかに高倉25号墳も発掘調査により確認されています。未確認の古墳の存在も想定できる地域ですので、F遺跡か25号墳のどちらかがこの言い伝えの塚であると断定は出来ないと思いますが、こうした言い伝えが残されていることからも、この地域に多くの古墳が存在したことがうかがえるのではないかと思います。
江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、この地域における、分倍河原の合戦の戦死者を祀ったという伝承の残る塚として「首塚」と「胴塚」を紹介しています。首塚に関しては所在が確認されており、近年の調査により周溝が検出されて古墳であることがわかっていますが、胴塚に関しては所在地がわからなくなっています。この祠が古戦場の霊の供養のために立てられたという由来から考えると、削平された塚が胴塚と呼ばれた塚であった可能性も考えられるのではないかと思いますが、所在がわからなくなっていることは残念です。。。
<参考文献>
府中市郷土の森博物館『南武武蔵の古墳』
府中市史談会「府中市内屋敷神調査報告」『府中市郷土館紀要 第8号』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
人気ブログランキングへ
- 2016/02/27(土) 03:58:52|
- 府中市/高倉古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0