
「高倉古墳群」は府中市西方、京王線分倍河原駅の西側に広がる立川段丘緩斜面一帯に位置する古墳群です。その多くは墳丘が失われているものの、周溝を持つ直径9~26mの円墳で構成されています。このうち、比較的規模の大きい古墳は木棺直葬であると推測されており、発掘された周溝からの出土品から6世紀前半頃の築造と考えられています。また、規模の小さな古墳は河原石積横穴式石室を主体部に持ち、石室から出土した埋葬品から6世紀後半から7世紀にかけて築造されたと考えられています。
画像は、府中市美好町3丁目の「高倉21号墳」の跡地を西から見たところです。この21号墳は、墳丘はすでに削平されて存在しないものの、前回紹介した「高倉20号墳」と同様に武蔵国府関連遺跡の第785次調査により存在が確認された古墳で、この調査により周溝の北側が検出されています。また、その後の第1485次調査では周溝南側が検出され、規模は墳丘の内径が約13m、外周径約16mの円墳であることがわかっています。
この地点には「耳塚」と呼ばれる塚が存在したという伝承が残されています。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「田間に胴塚、首塚などいひて多くの小塚ありて、其數しらず、」と胴塚と耳塚について記されており、また『太平記』にも首塚、胴塚、耳塚が取り上げられています。耳塚は分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚で、戦の際に印に首では重いので耳をそぎ、その耳を埋めた塚であるという伝承があり、また道の両側に一対に存在したからともいわれています。明治時代に削平されたとされており、周辺からは人頭骨やカメが出土しているものの、この耳塚からは何も出土しなかったようです。かつてはこの道の両側に、正確な所在地は不明としながらもこの伝承ともとに「№4-J遺跡」と「№4-I遺跡」としてこの耳塚が登録されてましたが、現在ではこの21号墳が耳塚であった可能性が考えられているようです。
この古墳の北側には墳丘の残る「高倉20号墳」が存在します。前回、この20号墳を地元の人が「耳塚」と呼んでいるという話を紹介しましたが、2基並んで存在したといわれる耳塚が果たして20号墳と21号墳であるのか、それとも21号墳ともう1基、未発見の「耳塚」が存在するのか、今後の調査の進展がとても興味深いところです。。。

JR南武線と京王線が交差する分倍河原駅前には、合戦を戦った新田義貞公の像が立てられています。
府中市により立てられた石碑には次のように書かれていました。
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らし
た分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉
倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には
利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指
して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、
両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しない
まま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急
ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原に
おいて大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭
山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰
してしまったといわれている。その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相
模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模
の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒涛の如く分倍河原を
急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れ
となり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍
の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市
街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に
伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメン
トを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、
題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつ
づけることを願うものである。
昭和六十三年五月
府 中 市

この像はすごくリアルにできていて、近くで見るとスゴイ表情です。。。
<参考文献>
府中市郷土の森博物館『南武武蔵の古墳』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府の調査 41』
府中市教育委員会・府中市遺跡調査会『武蔵国府関連遺跡調査報告 40』
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- 2016/03/25(金) 08:34:11|
- 府中市/高倉古墳群
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