
狭山丘陵周辺地域の古墳時代のようすは、この地域の開発が進まなかったこともあり、近年まであまり知られていなかったようです。埼玉県側の所沢市内ではいくつかの高塚古墳や横穴墓の発見例があるようですが、東京都側の東村山市、東大和市、武蔵村山市や瑞穂町といった多摩川から距離のある地域での古墳の発見例はなく、『東京都遺跡地図』にも登録されている古墳が存在しないという古墳の空白地帯となっています。果たしてこの地域に古墳はただの1基も存在しないのか、「塚」と名のつく痕跡の残されたものをいくつか廻ってみましたので紹介したいと思います。
武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の三本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。
画像は「加藤榎」を西から見たところです。この加藤榎と乙幡榎は、昭和60年代以降の病虫害と思われる症状や雪害による太枝の損傷などがあり、樹勢回復手術が行われてきました。この結果、乙幡榎は回復の兆しを見せたものの、加藤榎は衰えが著しくなったことから、加藤榎の実から育った樹を移植して、現在は2代目加藤榎となっているようです。
また、加藤榎は都道拡張工事に伴い、塚部分の埋蔵文化財の調査が行われています。残存当時の規模は、径9m.高さ0.9mの楕円形をしており、塚上には天保4年(1840)銘の馬頭観音が立てられていました。調査の結果、塚状の地形は榎の育成とともに周囲の土を盛り上げるように生成されたものであることが確認されています。
この三本榎の南側には、現在の東京都青梅市を埼玉県志木市とを結ぶ引又街道の名残が残されています。三本榎はこの街道の道脇に存在することから、近世以降の主要道路に築かれていた一里塚の役割を果たしていたのではないかと考えられていましたが、少なくともこの加藤榎の根元の塚状地形は、塚として築かれたものではなかった可能性が高いと考えられ、またやはり古代に築造された古墳でもなかったようです。。。

画像は、現在の加藤榎の根元のようすです。都道拡張工事の際の移植により塚状の盛り土は取り除かれ、小公園として整備されています。敷地には「三本榎史跡公園」の石碑が立てられています。
<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
現地説明版
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- 2016/05/28(土) 00:55:31|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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| コメント:6
こんにちは。
榎の生育に合わせて盛土が足されていったというのはちょっと面白い事例ですね。確かにこれは掘ってみないとその順序を確定するのは難しそうです。
- 2016/05/28(土) 08:54:58 |
- URL |
- kanageohis1964 #-
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クーちゃんさま、はじめまして。
ご訪問ありがとうございます。
まりこふんさんのことでしょうか?直接面識はありませんが存在は知っています。
- 2016/05/28(土) 13:00:01 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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kanageohis1964さま、こんにちは。
狭山丘陵周辺地域には、こうした榎の塚が数多く、かつては街道沿いに点在していたようです。道標や一里塚のような存在だったのでしょうか。。。
- 2016/05/28(土) 13:07:26 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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いつも詳細な記事を有り難うございます。年をとったせいで、なかなか廻ることができず、クサクサしていますが、探訪記に接する度に、現地に行ったような実感を得て感謝しています。
これからも、是非、様々な箇所をご紹介下さるようにお願い致します。
- 2016/05/28(土) 18:53:39 |
- URL |
- 野火止用水 #-
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野火止用水さま、こんばんは。
コメントありがとうございます。嬉しいです!
こつこつ更新していきますので、楽しみにして下さい!
- 2016/05/29(日) 00:08:09 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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