
武蔵村山市に所在する「三本榎」は、乙幡榎(榎3丁目)、加藤榎(学園1丁目)、奥住榎(学園1丁目)の3本の榎の総称です。『東京都遺跡地図』には、「三本榎塚」の名称で武蔵村山市の遺跡番号37番の”近世の塚”として登録されています。昭和50年(1975)には市の木に榎が制定され、これはこの三本榎が由来となっているなど、武蔵村山市のシンボルとして親しまれているようです。昭和51年(1976)には武蔵村山市の史跡として指定されています。
画像は「乙幡榎」を南西から見たところです。この乙幡榎と加藤榎は、昭和60年代以降の病虫害と思われる症状や雪害による太枝の損傷などにより衰えが見えたようですが、活性剤の注入や腐朽部分の切除などの樹勢回復手術が行われ、その結果、乙幡榎は回復したようです。
それにしても、23区内ではこんな風景はなかなか見ることができませんし、都心部ではもはや見上げないと青空すら見ることができませんから、心洗われるような光景です。古くは広大な畑地の中に3本榎は存在しており、塚ももっと大きなものだったようですが、この当時の雄姿を見てみたいものです。

現在の乙幡塚は「三本榎史跡公園」という史跡公園内に保存されており、敷地内には武蔵村山市教育委員会による説明板が設置されています。
市指定史跡 三 本 榎
昭和五十一年四月五日指定
三本榎は、東から奥住榎(水道局用地内)加藤
榎(都道東)と、この乙幡榎をあわせて呼んだも
のです。
大正時代末期(約六〇年前)に植えかえられた
奥住榎を除いて、樹齢は二百余年と推定されてお
り、その見事な枝ぶりは広く市民に親しまれてい
ます。
昔、腕自慢の若者三人が遠矢(弓)の競争をし、
北に見える赤堀の山から放った矢が落ちた場所に
榎が植えられ、それぞれの名をつけたという伝説
があります。
三本榎の南を東西に走る道路は、引又街道(市
街道)と呼ばれていました。この道路は、江戸時
代から明治時代にかけて重要な生活道路であった
ため、三本榎はここを往来する人々の休憩所とな
っていました。
この乙幡榎の塚にある庚申塔は、寛政十一年
(一七九九)に造立されたものです。
昭和五十六年七月
武蔵村山市教育委員会
乙幡榎の塚上には庚申塔が立てられています。高さ90cm、幅36cm、厚さ21cmの角柱状のもので、正面には「庚申塔」と大きく刻まれており、下部には三猿が配されています。右側面には「寛政十一己未年五月吉日」とあり、左側面には「多摩郡上中藤村赤堀講中 世話人高橋権八郎」と刻まれています。
<参考文献>
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第6号』
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第11号』
武蔵村山市立歴史民俗資料館『資料館だより 第48号』
現地説明版
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- 2016/05/29(日) 00:58:20|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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