
前回は府中市白糸台1丁目に残存する「彦四郎塚」を紹介しましたが、この彦四郎塚と同じ敷地内の西側数十メートルの地点には「首塚」が所在します。『東京都遺跡地図』では、墳丘の残存する彦四郎塚が府中市の遺跡番号17番の古墳として登録されているのに対して、この首塚は未登録となっています。
この首塚については、猿渡盛厚著『武蔵府中物語』に「なほその西側に並んで小塚があって鏡塚といつて居り」とあり、また本願寺に建てられている由来碑にも「彦四郎塚・首塚と呼ばれる古墳が現存し」と書かれています。実際に現地を訪れてみると、彦四郎塚と同じようにフェンスに囲まれて駐車場内に保護されているのですが、マウンドは残されていないようです。『武蔵府中物語』ではこの塚の名称を「鏡塚」として「彦四郎塚と小塚との関係は判らない」としているのですが、地元ではこの塚は「首塚」と呼ばれており、分倍河原の合戦による戦死者を埋葬した塚であるという伝承が残されているそうです。

画像は、首塚のフェンスに囲まれた内部のようすです。やはり残念ながら塚は削平されてしまったようですが、こうして跡地が保護されて残されているだけでも
同じ府中市内では美好町三丁目にも「首塚」と呼ばれる塚が現存しており、発掘調査で周溝が検出されたことにより古墳であったことがわかっていますが、この白糸台の「首塚」は発掘調査が行われていないため、どういう性格の塚であるか真相はわかりませんでした。

『武蔵府中物語』には「又今は崩壊してしまつてないが、小学校の玄関前あたりにも、一つあつたそうだが、彦四郎塚とそれらの小塚との関係は判らない。」と、もう1基、詳細不明の塚の存在について記されています。この塚は現在の府中第四小学校のプールのあたりに存在したようですが、跡形もなく消滅しているようです。
府中崖線上に存在する白糸台古墳群を形成する古墳のほとんどは京王線の南側から検出されており、京王線の北側からは古墳が確認されていないことから、彦四郎塚や首塚は古墳ではなく塚ではないかと考えられているようです。かなり密集する形で存在する3基の塚が古墳群であった可能性も考えてしまうところですが、このあたりは今後の調査を待たなければならないようです。。。

無名塚が所在したとされる府中第四小学校の敷地の一角には庚申塔が祀られています。この庚申塔の奥の、学校の敷地の南東側にわずかに塚状に盛り上がった一角を見ることが出来ます。最初はこの場所が塚の跡地ではないかと考えたのですが、これはどうやら違ったようです。

路上には「品川道」の石柱が立てられています。石柱には「品川道(しながわみち)の名は、この道が品川の宿へ通じる道だったことに由来します。この道は「品川街道」、「筏道」などとも呼ばれます。この道路には一里塚(市史跡)があります。」と書かれています。思えばこの品川道は府中市内の「白糸台古墳群」から調布市内の「飛田給古墳群」、「下石原古墳群」、「上布田古墳群」、「下布田古墳群」まで古墳群に沿うように通っていて、その後「狛江古墳群」のまっただ中をぶち抜けて品川へ向かいます。白糸台古墳群から下布田古墳群までのほとんどの古墳はこの品川道と府中崖線の間に存在するという状況ですので、何百年か前の品川道を歩くことが出来れば、何百基もの壮大な古墳群を見ることになったのではないでしょうか。ひょっとしたら品川道とは、府中崖線と平行に古墳群を避けるように造られた道だったのかもしれません。。。
<参考文献>
猿渡盛厚『武蔵府中物語 第21編』
府中市教育委員会『府中市内旧名調査報告書 道・坂・塚・川・堰・橋の名前』
車返由来碑
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- 2016/07/19(火) 03:31:55|
- 府中市/その他の古墳・塚
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