
「平塚」は、品川区荏原4丁目、現在の中原街道沿いに所在したといわれる塚です。
『東京都遺跡地図』には未登録ですが、古くはこの周辺地域の字名にもなっており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「村の東の方なり」と記されるなど、かなり知られた存在であったようです。
この平塚にまつわる言い伝えについては、『荏原中延史』に詳しい記述を見ることが出来ます。
足柄山の夜半の月、風流武將新羅三郎義光の塚なりといわれる。中延村は平塚の塚周辺は畑なれど、一里塚に見らるゝ程度の大きさであつた。この新羅三郎義光の塚であるという伝説の外に、これは平將門の弟將平の首を葬つたのであるという説もある。この伝説や文献を綜合してみると承平、天慶の亂に平親王將門征伐に総大將藤原秀郷の幕下に我が荏原の住民で荏原三郎という勇士があつた。一族を引具して下総に転戰し大功を建てた。この亂以前に將門は自分の伯父国香を殺した。国香の子平貞盛は、この機に乗じて秀郷の軍に合流し、荏原三郎の援助の下に仇敵將門兄弟を强弓を以て、射殺して首級を携えて荏原三郎は荏原に帰り、後年新羅三郎義光が施主となつて懇ろに將門の首を平塚に葬つたものであるという。故に平塚というと眞?何れにしても興味豊かな郷土物語りではある。(『荏原中延史』34ページ) この平塚は高さ七、八尺で広さ十坪程もある円形の塚で、戦後に整地された際には、多くの鎧や兜、刀剱などが発掘されたといわれています。
画像の、中原街道から北西側のバーミヤンのあたりが平塚の跡地であると思われますが、残念ながら塚は削平されて消滅しており、痕跡を見ることは出来ません。

塚の削平後、周辺に暮らす人たちにたびたび不吉な出来事がおこるため、「塚が失われたことによる義光の祟りではないか」といわれるようになり、塚の跡地近くに供養のために「平塚の碑」が建てられたそうです。画像はこの平塚の碑を北東から見たところです。
現地に立てられている品川区教育委員会による説明板には次のように書かれていました。
平塚の碑
所在地 荏原四丁目六番四号
古くは鎌倉へ通じる古道で、江戸時代には東
海道の脇街道として往来の盛んであった中原往
環(中原街道・相州道)沿いに「平塚」と呼ば
れる大きな塚があった。
伝承によると、後三年の役(一〇八三~八七)
において八幡太郎源義家をたすけた弟の新羅三
郎源家光は奥州からの帰途、この地において夜
盗のため多数の部下を失った。その霊を祀った
のが、この塚の由来とされている。
時の流れとともに、この塚は取り壊されたが、
地域の人たちによって昭和二十七年(一九五二)
三月、「平塚の碑」が建立され、伝承は受け継
がれている。
昭和五十九年四月三十日
品川教育委員会
芳根彌三郎『荏原中延史 後編』
品川区教育委員会『品川の地名』
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
現地説明板
人気ブログランキングへ
- 2016/08/11(木) 06:25:51|
- 品川区/その他の塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0