
画像は、品川区大井7丁目にある「庚塚稲荷」を南から見たところです。この池上通りに面する庚塚のある周辺は、寛政期以前から大井村の中心地であり、稲荷の祠は小高い塚の上に祀られていたことから「庚塚稲荷」と呼ばれていました。「庚塚」は明治9年の地租改正以降に字名となり、昭和7年からは大井庚塚町となりましたが、昭和39年の住居表示実施により大井7丁目となり、庚塚の名称は消滅しています。
この、かなり知られた存在であったと思われる庚塚は多くの郷土史に記述が見られ、『南浦地名考』には「(庚塚)池上道の内百姓の居屋敷にあり、稲荷の祠あり庚塚稲荷と云ふ、金塚と云ふ、又鐘鑄塚なりとも云ふ、又庚申の塚と云ふを庚塚とも云へり、此近辺の惣名となれり」とあり、また『大井町誌』には「(庚塚)町の西にある。庚塚稲荷の祠が在るので云ふ。又金塚とも云ふ、庚申塚が在るからである。東西三町三拾間南北二町五拾間余り。」と書かれています。

画像は北西から見た現在の庚塚稲荷です。現代の建物に取り込まれてしまったようにも見える庚塚稲荷ですが、よく観察すると塚状に高くなった上に祠が祀られています。果たしてこれが塚の痕跡なのか、それとも他の場所から移されたものであるかはわかりません。東京湾に面する台地縁辺部に近い位置に所在する塚ということで古墳の可能性も考えたのですが、学術的な調査は行われていないようなので塚の性格まではわかりませんでした。大井古墳群から多少距離のあるこの周辺地域に古墳は存在しなかったのでしょうか。。。

塚上のようすです。境内には「縁者一同」による「稲荷縁起」の説明板があり、「霊験あらたかなる当稲荷は この地が江戸と呼称される以前にさかのぼる大井の庄の頃より土地の人々に愛され あがめられてきた由緒ある存在である 家内安全 無病息災 子宝授与 蓄財万全 旅の安全 祈願成就 等多くのお恵みにより 万民の幸福を約されている 平成の良き日にあたり改めて縁を起毫するものなり 平成二年吉日 縁者一同」と書かれています。

「庚塚」は、周辺の公園の名称に残されているようです。。。
【追記】
その後、このお稲荷様について、近隣で生まれ育って50余年という地元の方からコメントをいただきました。
この神社を所有する建物の場所は以前は砂利の露天駐車場で、そこに一間四面くらいの板張りの堂と鳥居一基があったそうです。この当時は駐車場と同じ高さの社地だったそうなので、少なくとも現在の祠の土盛は塚の痕跡ではなく、現代の建物の建築に伴い盛られたものであるようです。
『南浦地名考』が発行されたのは昭和26年(1951)ですので、戦後にはまだ塚のなんらかの痕跡は残されていたのかもしれませんが、昭和40年代には、整地されて消滅してしまっていたようです。。。
<参考文献>
安田精一『大井町誌』
品川区教育委員会『品川の地名』
磯ケ谷紫江『南浦地名考』
現地説明板
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- 2016/09/13(火) 01:23:52|
- 品川区/その他の塚
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