
画像は、目黒区中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」を東から見たところです。6基の庚申塔がおさめられている庚申堂で、別所坂を登りきった台地の縁辺部に所在しています。昭和10年(1935)に目黑區大觀刊行會より発行された『目黑區大觀』には「上目黑別所坂の上重信常直氏邸の前にある庚申堂附近で、新編武蔵風土記稿に『上目黑別所にある、除地五坪』とある。元祿の頃よりさゝやかな堂宇が建てられ、後近年に至り昭和五年頃上・中兩別所の有志が發起となつて七百餘圓の寄附を集め、祠堂の大修築を施こした。現在鏡域二十五坪五合、數年前まで古松が殘つて居た。」と書かれています。江戸時代には庚申堂は存在しており、その「附近」ということはこの庚申堂とは別の場所に塚が存在した、ということのようですが、すでにこの庚申塚は消滅しており、所在地はわからなくなっています。

この別所坂上庚申塔に近い恵比寿駅周辺には、加計塚古墳や渋谷塚古墳、渋谷区の遺跡番号55番の無名墳など、古墳ではないかと考えられている塚が多く存在したとされており、古墳群の存在も想定されているようです。また、北西側の台地縁辺部には猿楽塚の北塚と南塚の2基が現存しており、こちらも古墳ではないかと考えられています。
別所坂上庚申塔に隣接する場所はかつて存在した「目黒新富士」の跡地です。富士塚が元々存在した塚や古墳を流用して築造された事例も多く確認されていることから、この庚申塚や新富士が古墳であり、この台地縁辺部に古墳群が存在した可能性はないだろうかと考えて調べてみました。庚申塚については破壊の際の遺物の出土の伝承等はなく、また学術的な調査も行われていないようです。また、新富士についてめぐろ歴史資料館でお訪ねしたところでは、何もない場所に築かれた富士塚であり古墳流用の可能性はないのではないかとのことです。残念ながらこの周辺での古墳の存在の可能性は今のところ考え難いようです。。。

昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「庚申塚」が記載されているのですが、この庚申塚は所在地が「上目黒2丁目」と記されています。ということは、中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」とは別の庚申塚が存在するのだろうか?と考えましたが、上目黒2丁目に所在する塚について書かれている文献は見つけることが出来ず、詳細はわかりません。
ちなみに上目黒2丁目には2ヶ所に庚申塔が残されており、画像はこのうちの1ヶ所である「天祖神社」を南東から見たところです。この神社の境内に庚申堂があり、2基の庚申塔が祀られています。

画像が「天祖神社庚申塔」です。塚らしきマウンドは見当たらないようです。

画像は、上目黒2丁目に所在するもう1ヶ所の庚申塔で「けこぼ坂庚申塔」です。目黒区役所前の、駒沢通り沿いの坂の途中の歩道に残されています。
やはりこの場所にも塚は存在しないようです。果たして、開発が進む以前には塚の上に祀られていたのでしょうか。。。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
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- 2016/09/15(木) 01:24:06|
- 目黒区の古墳・塚
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