
画像は、品川区東大井3丁目に所在する「梶原稲荷神社」を北から見たところです。この神社の境内には「梶原塚」と呼ばれる塚が残されています。
梶原稲荷神社は建久3年(1192)、征夷大将軍源頼朝の命を受けた梶原平三景時は、武蔵國荏原郡大井村鹿島谷に「萬福寺」を建立したものの、元応2年(1320)に火災により全焼、境内にあった稲荷祠だけが焼け残ったと伝えられています。その後、萬福寺は現大田区の馬込村に再建されますが、稲荷祠だけは来福寺に属してそのまま残されていましたが、近年の都市化により来福寺と梶原塚の間の宅地化が進み、現在のように別々の形態になったようです。

画像は、境内に残存する「梶原塚」を北西から見たところです。稲荷祠は来福寺に移された後も梶原稲荷と尊称されて現在に至っていますが、梶原塚は梶原一族の墳墓ではないかと考えられているようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られ、「来福寺」の項に「梶原塚。境内北の方にあり、景季の墳と云、按に此邊梶原景時父子の舊蹟と云もの多し。巳に馬込村の條にも記せし如く、永禄の頃小田原北條家人に梶原氏のものありて、馬込村を領したるにより後人附會の説を起し、かく景時が舊蹟のやうに云傳へしならん、猶馬込村の條に合せ見べし。」と書かれています。
北東に300mほどの地点には、前方後円墳ではないかと考えられている「大井林町2号墳」の跡地とされる立会小学校があり、古墳群が存在しています。同じ台地上の縁辺部に存在するこの梶原塚が、古代に築造された古墳である可能性も十分に考えられるのではないかと思われますが、発掘調査等は行われていないために詳細はわかりません。

北東から見た梶原塚です。塚は四方を削平されて方形に改変されており、東側に梶原稲荷の社殿が鎮座しています。周囲を宅地に囲まれているので、塚の全景を写真に収めることは出来なかったのが残念ですが、どんな性格の塚なのか、とても興味深い梶原塚です。。。

梶原稲荷神社社殿に設置されていた「梶原塚稲荷祠由来記」です。梶原塚についての記述も見ることが出来ます。
<参考文献>
品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』
梶原稲荷講『梶原稲荷神社由来記』
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- 2016/10/01(土) 03:20:54|
- 品川区/その他の塚
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