
画像は、大田区大森西2丁目にある「金山神社」を南から見たところです。この神社の敷地内にかつて古墳ではないかとも考えられるマウンドが存在したといわれています。『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号164番の”中世の塚”として登録されています。
この塚については、東京都心部遺跡分布調査団により行われた昭和58年度の分布調査で存在が確認されています。この調査結果が掲載されている、昭和60年(0985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』には「金山神社古墳」という名称で古墳として取り上げられており、「一部遺存、30cm程度の高まりがあるのみ」と書かれています。また、大田区教育委員会より発行された『大田区の神社』にはこの神社の由緒について「古墳の上に金山彦大神を祀った小祠を建てたのがその始まりであるが、創建の年代はわからない。古墳も現在は跡形もない。」とも書かれています。
しかし、その後の『東京都遺跡地図』や『大田区遺跡地図』には「金山神社塚」と名称が変更されており、古墳ではなく中世の塚として考えられているようです。

画像は、金山神社の境内を南西から見たところです。社殿の土台の部分が一段高くなっているようすを見ることが出来ます。

南東から見たところ。境内の築山にしか見えないこの残存するマウンドは変な形に改変されており、古墳の面影はありませんが、『都心部の遺跡』にある「30cm程度の高まり」は確かに残されているようです。

敷地内には昭和8年に建立されたという「古墳由来碑」という石碑が建てられています。画像中央がこの「古墳由来碑」です。この碑文は次のように書かれているようです。
「抑々此地は北条氏以来數度の古戦場にして幾多の遺跡と共に附近諸處に大小古墳の散在せしも、いつの頃か崩壊して今は残存するもの殆ど稀なり。案ふに是等古墳の中には彼の上代民族に關はるものあるへきも或はまた當時の土民か知名戦歿将士の屍を葬り、塚を築きて以て其霊を祀りしもの尠からさるへきは蓋し推定に難からさるへし。此墳今猶原型を存して今日に至りしは種々なる神秘的傳説と共に古來小祠を設けて金山彦大神を齊き以て土民の信仰と結ひ、爲に幸ひにその崩壊を免れしものなるべし。今現に存する處の金山神社古碑は元祿年間のものたるを見ても瞭かなり。爾來幾星霜今や後墳上に雜木の繁茂するに委瀬、小祠も亦頽廢するに至りしか。偶々今次東京市域擴張に當り、本町の有志神社を中心とする諏訪会を発起し、その事業の一として墳域を整備し社祠を改築し、以て古跡を永遠に保存し敬神の實を學けんとす。仍て聊か其由來を録して後代に貽すと云爾」
諏訪神社車掌 上野信親謹誌(『大田区の文化財 第7集 大田区の神社』43ページ)
この塚がどういう性格の塚であったかはこの碑文からは読み取る事は出来ませんが、少なくとも何らかのマウンドの上に祠を祀ったことは間違いないようです。
<参考文献>
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
大田区教育委員会『大田区の文化財 第7集 大田区の神社』
大田区教育委員会『大田区の文化財第30集 考古学から見た大田区 ―横穴墓・古代・中世 資料集―』
- 2015/08/17(月) 23:31:06|
- 大田区/その他の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
路傍学会長さま
なんと2000回の拍手とはビックリしました。
ありがとうございます。
今後も東京の古墳にこだわって地味に続けようと思っています。よろしくお願いします!
- 2015/08/19(水) 22:08:22 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
- [ 編集 ]