
画像は京王線笹塚駅前の甲州街道沿い、渋谷区笹塚2丁目を南西から見たところです。この場所には、周辺地域の地名の由来になったとされる「笹塚」と呼ばれる塚が存在したといわれており、渋谷区教育委員会により説明板が設置されています。『東京都遺跡地図』には未登録となっていますが、一里塚であったとも古墳であったともいわれており、塚にまつわる伝説も残されているようです。すでに破壊されて消滅してしまったこの笹塚は、はたしてどんな性格の塚だったのでしょうか。。。

画像が、「笹塚」の所在地とされる2丁目12番地の南西角に設置されている説明板です。
笹 塚 跡 笹塚二丁目12番
昔、このあたりの甲州街道の南北両側に、直径
が一メートルほどの塚(盛土)がありました。その
上に笹(または竹)が生い茂っていたことから、笹
塚と呼ばれていたようです。
その塚が、慶長九年(一六〇四)に設置された
一里塚であるかどうかははっきりしませんが、こ
の塚に一里塚の印を記載している古図もあります。
また、江戸時代の文書にも笹塚のことが簡単に
述べられています。大正五年(一九一六)に発刊さ
れた『豊多摩郡誌』には、「甲州街道の北側に石
塚があったが、今は見られない」と書いてありま
す。
この塚があったことから、この地域一帯を昔か
ら笹塚と呼び、今もそれが町名として残っている
のです。
渋谷区教育委員会 この説明板からすると、笹塚は一里塚であった可能性が高いように思われるのですが、この周辺地域の郷土誌をひも解くと諸説あるようです。大正5年に発行された『豊多摩郡誌』には「幡ヶ谷志村兵四郎邸外なる甲州街道の南側に三尺餘の石塚ありたるとも、今は濠中に没して其の形だも見えず、又同所中村禎作邸前甲州街道北側にも石塚ありたれど是亦た土中に埋れて今見る能はず、以上は孰れも慶長九年建設せしものなりと言傳ふ」と、当時の塚のようすと所在地について書かれているのですが、同書にある「幡ヶ谷志村兵四郎邸」とは現在の渋谷区幡ヶ谷1丁目4番地あたりのことで、ちょうど京王線幡ヶ谷駅あたりの甲州街道南側、幡ヶ谷ゴールデンマンションの西側部分にあたります。そして「中村禎作邸」とは現在の渋谷区笹塚1丁目12番地、京王線笹塚駅あたりの「笹塚跡」の説明板が立てられている区画にあたります。両者は京王線各駅停車の一駅分、約700~800メートル程は離れており、これほど離れたこの2基の塚が一里塚であったとは考えられません。これはいったいどういうことなのでしょうか。。。

画像は、『豊多摩郡誌』にある「旧志村兵四郎邸」にあたる場所です。画像の右側のマンションの駐車場部分あたりが塚の跡地と思われます。地下には京王線幡ヶ谷駅があり、地上には大きく拡張された甲州街道の上には首都高速道路4号新宿線が走っており、塚の跡地前がちょうど幡ヶ谷出入口となっています。とても埋蔵文化財が残されているとは考えられない場所で、塚の痕跡は何も残されていないようです。
さて、一里塚であるとされるこの遠くはなれた2基の塚の真相について、『幡ヶ谷郷土誌』には次のように書かれていました。
「(前略)江戸を中心として築かれた諸街道の一里塚は日本橋を基點とし、其所から三十六町一里の計算で測定して設けられたものであったから、甲州街道に限って僅か六町餘を距てた両地點に両箇の一里塚があるといふ事は考へられぬ事で、これは両箇所の何れかの一つは眞実の一里塚では無く、何かの誤傳から後世斯うした奇怪な説が傳へられるやうになったのではあるまいか。然りとしたならばこの両箇の中の何れかが眞実の一里塚であらうか。
前にも一度甲州街道の項で引用したが、明治六、七年の頃に書かれた東京府志料に、
日本橋区通一丁目二丁目の間に於て東海道より西折し、呉服橋を經て旧日比谷門に至り、麹町隼町一番地に至りて日本橋より一里、此に第一の標を建つ、夫より内藤新宿三丁目二十四番地に至り二里一町二十五間、此に第二の標を建つ、夫より幡ヶ谷村五十五番地に至り此にて三里第三の標を建つ、夫より和田村と代田村松原村の間を經て下高井戸八十八番地に至りて四里、此に第四の標木を建つ。云々
とあるが、この記録に記された道程は江戸幕府時代に日本橋の基標を基點とし、甲府へ至る間の道路、即ち甲州街道として定められてあった道路を踏襲して測定されたものに相違無いが、それならば同一地點を起點として三十六町一里の定めで測定された一里の地點は、初めに一里塚を築かれた地點と一致せねばならず、二里の場合、三里の場合でも同様である。さうだとしたならばこの東京府志料にある幡ヶ谷村五十五番地の里程標こそ、江戸時代の一里塚の所在地を示す地點であり、其所にあった一里塚こそ眞箇の一里塚であると断定し得る事となるのであるが…(後略)」(『幡ヶ谷郷土誌』185~186ページ)

『幡ヶ谷郷土誌』の記述からすると、この幡ヶ谷1丁目4番地あたりに所在したといわれる塚が真の一里塚であるようです。画像は一里塚跡地を南西から見たところで、甲州街道の反対側から一里塚の跡地である幡ヶ谷ゴールデンマンションの駐車場部分を見たという状況ですが、やはり塚の痕跡は何も残されていません。こちら側は京王線が地下に入るトンネルとなっている場所で深くまで掘り下げられていますので、この塚が古墳であったとしても、地中も含めて痕跡は何も残されていないようです。。。

さて、幡ヶ谷に存在した塚が甲州街道の一里塚であったということであれば、笹塚に所在した塚はどんな性格の塚であったのかということになりますが、これについても『幡ヶ谷郷土誌』に記述があり、次のように書かれています。
現在は甲州街道の擴張工事のためにこの塚の在った所も丁度道路の北側の辺となり、好個の一里塚所在地の位置となったが、工事前には道路から五、六間距った民有地内に在った地坪五、六坪、高さ七、八尺の土塁で、豊多摩群誌が書いてゐるやうな石塚では無く、またそれが土中へ埋没するやうな状況の地形でもなかった。しかも前記の天保十四年の記録にもある通り、道路の南側の笹塚一丁目五十六番地にもこれと同一形式の塚があったといふ。そしてこの南側の塚は甲州街道開設の際に道路敷に當たるその半面は切崩され、その後この道路の改修工事の際に残された塚も取崩され、堆土は改修用の土に使用されてしまったものであると傳承されてゐる。
斯様の有様で南側の塚は全く崩壊されて明治以前に姿を失ったのであったが、農村時代にはこの塚に隣接して居住して居た農家の家名を「塚」と呼んでゐたが、それは此所に塚の在った名残の呼名であった事を裏書してゐるのであった。そしてこの南側の塚は筆者が物心附く以前から名のみ残って、実際の塚は失はれて終ってゐたので知る由も無かったが、北側の道路より五、六間奥まった所に在った塚には熊笹が繁茂し、塚の上には数本の小雑木が樹ってゐてその塚裾の東北地點に小さな墓石が四、五基、崩壊に瀕して建って居たのを記憶して居り、それは今に回想するのに四囲の状況から推しても一里塚とは思へない。
それならば何故斯うした塚を昔の文書は、一里塚村内笹塚と申所往還左右に御座候などと書いたのであらうか。それは當時の農民等の実生活と知識の程度から攻究して行かねば解らない。三百六十日暗いから暗いまで働き乍らも常に貢租に尻を叩かれて居たであらう彼等が、彼等の生活とは無関係な一里塚に果して関心を有って居たであらうか。しかもそれが構築された當座ならばいざ知らず、建造後百十餘年を經過した後にである。延宝八年に既に法界寺山門前に建立されてゐた庚申塚を始め、元禄十三年の笹塚庚申塚等数々の庚申塚が存してゐたにも拘わらず、同文書の中で庚申塚無御座候と答へて居る當時の農民等の知識としては、俗に墓石其他の碑標等の建てられた所をも塚と言った事を考へず、塚と し言へば正直に堆塚の地とのみ考へ、それが恰も道路の間近に在ったがために一里塚との質問に対し、之れがそれであらうと考へて斯く上申
したのも無理は無い。しかし此の塚は古くから傳承されて居る道路作りの際に南側の塚は半分壊されたといふ説話や、残存して居た北側の塚の状況から推測して決して一里塚では無かった事は明らかである。しかも笹塚の地名は笹の繁茂して居た此等の塚に由来する事は明かであり、笹塚の地名はそれ程新しいものでは無く、この幡ヶ谷に村作りが開始された頃から存したものと想像されるから、この地名は甲州街道開通以前からのもので有った事は明かである。(『幡ヶ谷郷土誌』186~187ページ) 画像の道路の左側が、同一形式の塚があったといわれる笹塚1丁目56番地にあたりますが、この場所も都市化の進んだ京王線笹塚駅と駅前の甲州街道沿いの一画であり、もはや塚の痕跡など微塵も残されていません。『幡ヶ谷郷土誌』の著者堀切森之助氏は、「一里塚と笹塚」の項の最後に「斯うして彼此考察して来ると笹塚の塚は決して徳川時代に築造されたものでは無く、それより以前既に存在して居た事が分明であり、その所在地の地形からしてこれは原住民の小円墳では無かったかと思はれる。」とはっきりと記述していますが、ダイダラボッチの伝説も残されているというこの「笹塚」がどんな性格の塚であったかは、消滅してしまった現在では確認することは出来ないようです。。。
<参考文献>
東京府豊多摩郡『豊多摩郡誌』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 上巻』
東京都渋谷区『新修 渋谷区史 中巻』
堀切森之助『幡ヶ谷郷土誌』
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- 2016/10/30(日) 22:48:14|
- 東京の一里塚
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