
画像は、千代田区一ッ橋2丁目の「一ッ橋二丁目遺跡」の所在地を南東から見たところです。古代から中世、近世にかけての複合遺跡であるこの一ッ橋二丁目遺跡からは、須恵器や土師器に加えて円筒埴輪片が1点出土しており、周辺に古墳の存在が想定されているようです。
この「一ッ橋二丁目遺跡」は、江戸時代初頭に行われた神田川の付け替えにより消滅したといわれる旧平川の左岸に位置しており、河川際の微高地であったと推定されています。近世では江戸城外堀の一角である一ツ橋御門外であり、寛永9年(1637)には大河内松平家の上屋敷となるも明暦3年(1685)と寛文元年(1671)の火災により明地となり、その後美濃郡上藩遠藤家上屋敷となるも享保2年(1717)の大火災により再度明地となり、明治時代以降は東京大学や学習院大学といった大学の集まる地域となっていたようです。現在のこの場所は首都高速都心環状線と5号池袋線が合流する竹橋ジャンクションの北東側の白山通り沿いにあたり、交通量も多く開発の進んだ地域で古墳の存在は想像し難い場所ですが、対岸の台地上に立地する北の丸の国立近代美術館遺跡からも埴輪片が検出されており、また皇居内や九段坂上貝塚といった平川を望む台地の縁辺部でも同様に埴輪片が検出されていることから、この周辺地域に複数の古墳が存在した可能性が考えられているようです。

千代田区立日比谷図書文化館には「一ッ橋二丁目遺跡」より出土した円筒埴輪片が常設展示されています。(館内は撮影禁止とされていますが、文化財事務室にて許可を得て撮影させていただきました)

一ッ橋二丁目遺跡跡地は現在、学術総合センターのビルが建てられており、敷地内には「東京外国語学校発祥の地」の石碑が建立されています。東京外国語大学は安政元(1857)年に創設された蕃書調所が起源といわれており、明治6年(1873)に前身である東京外国語学校が開設されています。その後、昭和15年(1940)に北区西ヶ原に移転、昭和24年(1949)に「東京外国語大学」となり、現在は府中キャンパスに移転しているそうです。

「一ツ橋」という橋があったのですね。千代田区教育委員会による説明板によると、この一ツ橋は内濠川に架かる見附橋で、徳川家康が江戸城に入ったころは大きな丸太が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといわれているそうです。現在の橋はもちろんコンクリート造りで、大正14年(1925)に架設されたものですようです。
<参考文献>
千代田区一ツ橋二丁目遺跡調査会・文部省・学術情報センター『一ッ橋二丁目遺跡』
現地説明版
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- 2016/11/19(土) 01:39:03|
- 千代田区の古墳・塚
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