
「道京塚」は、目黒区南町3丁目に所在したとされる2基の塚の総称です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とする12基の塚のうちの1基として取り上げられています。旧番地の宮ケ丘1844番地の塚が「東道京塚」、1845番地の塚が「西道京塚」と呼ばれ、どちらも広さ100~130平方メートルほどを占める高さ4mほどの円墳状の塚であったといわれていますが、どちらの塚も現在は削平されて消滅しています。
画像は、目黒区南町3丁目の東道京塚の所在地付近のようすです。塚の所在地は道路の左側あたりのどこかにあたると思われますが、正確な跡地はわかりません。昭和37年に発行された『郷土目黒』の第六輯では元の土地の所有者による回顧録と塚の往時の写真を見ることができるのですが、同書によると東道京塚は終戦後まではほぼ原型を留めており、昭和30年前後に取り壊されてしまったようです。塚の頂部には「東道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていたようですが、同書には「この塚の持主であり、好事家であった私の父、金蔵のたしか昭和初年になしたことであるが、後にあやまちを招く恐れがあると思った。果して直きに、この塔の存在と名称によって、経塚であると見るような向も現われた。 」とあり、五輪塔の存在を根拠とする経塚であるという判断は誤りであるとしているようです。

画像は、「東道京塚」の塚上に立てられていたという五輪塔です。この五輪塔は現在、碑文谷1丁目の円融寺の境内に祀られています。この場所には多くの板碑が円墳状に立てられて祀られており、東道京塚の五輪塔はその正面に見ることができます。

画像は、目黒区南町3丁目の西道京塚の所在地付近のようすです。塚の跡地はおそらく道路の右側のどこかにあたると思われます。こちらの塚は戦前には開墾されて破壊が進み、高木神社遥拝所の小祠が建てられていたようです。その後の開発により塚は消滅、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見ることはできないようです。
この2基の塚は学術的な調査が行われないまま消滅しており、塚の性格については不明とされていますが、『郷土目黒 第六輯』には、元の土地の所有者によるの推察が次のように書かれています。
両塚は附近の富士見台三合塚(古墳時代末期の前方後円墳と推定された)と同じく、すぐ南方に洗足池の水源の一つをなす清水窪の湧水低湿地をひかえた丘陵の上頂部にあるところから、立地上三合塚と同時代の円墳と見られないこともない。現に東塚の西下の地点から無紋薄手の古土器の完全なものを掘出したことがあったが、地上に出すと同時にバラバラにくずれてしまった。
尚この二塚の取こわしの状況を見る機会を私は持たなかったが、ともに出土品はなかったときいた。
これ等の事実と離れて、この塚に道京塚(どうきょうづか)と言う名称がつけられたことについては、私に二つの仮定、想像がわくのである。
一つは道京塚、即ち道鏡塚、道鏡、村境の標識としての塚ということである。西塚は目黒区内の最高所の地点を走る旧六郷道のかたわらにあり、東塚は丸子道のかたわらにあり、ともにいりくんだ馬込村千束との村境にあることは事実である。
今一つは、道京塚は道鏡塚なりとする説であって、これは曽て洗心堂主人、赤崎新太郎氏の私に教示されたものである。即ち道鏡塚又は将門塚といわれるものは、ともに謀叛者、反削道鏡(–772)平将門(–940)の名をとっているのは、古く郷村においては、秋に笛や太鼓で害虫を村境の川や塚まで追出す虫追い(悪病よけ)の慣習行事があり、この遺跡の塚が各地にある。即ち村境を現わしたものが道京塚でありとするのであるのである。
それでは再び失われたこの二塚は古墳なりや、はた又一里塚、境界塚の如き標識の塚なりやということになるが、標識塚としては三合塚とこの二塚の距離が、三角形に何れからの距離も2~300メートルを出ない近距離にあり、又東方洗足には塚越などの地名もあり、このあたり一帯にかけては、小規模ながら古代文化のあとの古墳群のあったことを示すものではないかと私は思う。(『郷土目黒 第六輯』8ページ~9ページ) 東方に存在する「三合塚」については、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した3基の塚であることがわかっており、前方後円墳ではなかったことが確認されていますので、2基の道京塚と周辺の塚を含めて古墳群が存在したとする説は現実的ではないと思われますが、なかなか興味深い仮説です。この塚の位置はかつての碑文谷村と馬込村の村境となっていましたが、現在でも目黒区南町3丁目と大田区北千束1丁目との境界となっています。「めぐろ歴史資料館」で行われた平成27年の春の企画展でも、展示されていた境界にまつわる民俗資料としてこの道京塚が紹介されていたようですし、同書の記述からしても境塚であるとする説が現実的かもしれません。。。

西道経塚の頂部にも、東道京塚と同様に「西道京塚」と刻まれた五輪塔が建てられていました。この五輪塔は現在、中目黒3丁目の「めぐろ歴史資料館」の敷地内に移設保存されています。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
富岡丘蔵「失われた道京塚二つ」『郷土目黒』
目黒区めぐろ歴史資料館『めぐろ歴史資料館だより つどい 第10号』
人気ブログランキングへ
- 2016/11/27(日) 09:35:53|
- 目黒区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0