
目黒区内には、周辺地域でその存在が知られており、また塚にまつわる伝説が残されていながらも削平されて消滅した塚が数多く存在しています。
「鐘鑄塚」は目黒区駒場に所在したといわれる塚です。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「鏡塚」という名称の塚が記載されています。ただし、おそらくこの名称は間違いで、「鐘塚(鐘鑄塚)」と同一の塚を指したものではないかと思われるのですが、塚の所在地については旧番地で「駒場町915番地」とはっきりと記載されています。おそらくはまだこの時点で塚が残存していたか、または墳丘が破壊されたものの塚の跡地がまだ地元の人の記憶に残されていた状況であったと考えられます。そこで、鐘鑄塚の所在地を突き止めるべく、当時の番地が記載されている古地図を探してみました。しかし、やっと見つけた古地図にはなぜか913番地までは記されているものの914と915番地が存在せず、916番地以降がまた記されているという状況で、塚の位置が判然としません。そこで、大体この辺りではないかという当たりをつけて実際に現地を訪れてみました。
画像が、旧駒場町の900〜910番台と思われる周辺のようすです。。。

この周辺は古地図と比べると大きく地形が変わっているため位置を推定するのは難しいのですが、やはりこの周辺もすでに宅地化が進み、古墳らしき痕跡を見ることはできません。。。

北に進むとすぐに一段高くなった台地となり、古墳が存在したとすればこの辺りか?とも思われるのですが、やはり塚を見つけることはできません。画像は、東京大学校内の、ちょっと気になる地形をした場所です。。。

目黑區大觀刊行會より昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの塚の言い伝えについて次のように書かれています。
里俗『鐘塚』と言つて、今の帝都電鐵東駒場驛の下御成橋の附近にあつた。同所は山内杉太郎の先々代上知組名主三左衛門氏の邸内に在りし由。同家は會て牛乳搾取業を營み家號を金塚舍と言つて居たが、これはその古名に因むものであつた。名所圖繪に
鐘鑄塚は駒場野の中にありと云ふ。方九尺許り、高七八尺許りなりしとぞ。昔此處にて梵鐘を鑄たる舊跡なりと傳ふれども、何れの寺の鐘なりしや知るべからず。富士見坂の下の水流、下澁谷の分水掛口の地の名に『道場ヶ淵』と伝ふあり、いづれ此の近邊に盛大の寺院ありしなるべし
と記して居る。(『目黑區大觀』206ページ) 『目黑區大觀』の「帝都電鐵東駒場驛の下御成橋附近」という記述からして、ひょっとしたら鑄塚の所在地は、『目黒区史』にある「駒場町915番地」は間違いで、正しくは815番地ではないかとも考えて散策してみましたが、やはりこの周辺も宅地化が進み、塚の痕跡は全く見ることができません。
これは私の推測ですが、目黒区域の古墳時代の遺跡の分布状況から考えると区内の中央部周辺は人々の生活に適さない原野が多く、古墳が存在するとすれば目黒川流域か、河川の上流の台地上に限られていたのではないかと考えていました。現在『東京都遺跡地図』に古墳として登録されている「大塚山古墳」や「狐塚古墳」は実は後世の塚で、世田谷区との区境にある「土器塚」やこの「鐘鑄塚」に古墳の可能性を感じていたのですが、よくわからない!というのが結論です。。。
この他にも『目黑區大觀』には、現在の青葉台3丁目あたりに存在したといわれる「東山塚」について「上目黒の中央にあつたもので、上目黒村石川組名主加藤定右衛門がもと住んで居た所に當つて居るが、塚らしいものは全然殘つて居ない。又その名の起源も定かでない。市郡併合まで、その名の塚の字を除いて、単に『東山』と云ふ字名が殘つて居た。」とあり、また「耳塚」についても「上目黒東山にあつた。昔敵軍人の耳を斬取つて埋めた所であると傳へられて居る。後に至り之を平坦にして、其趾に耳塚花園と云ふものが有つたが、大正六七年の頃町田氏の邸宅を建築するに當り、其の邊りを發掘した際には、拍車様のものが多數發見されたと伝ふ。」と書かれています。「耳塚」の名称からする言い伝えや、拍車(靴のかかとに装着する馬術のための道具)が出土したという伝承は非常に興味深いのですが、いづれも塚は消滅して正確な所在地はわからなくなっており、真相は不明です。
果たして、目黒区内に古墳は存在したのでしょうか。。。
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
人気ブログランキングへ
- 2016/11/30(水) 08:25:09|
- 目黒区の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
こんばんは、ご〜ご〜ひでりん様
昭和22年の航空写真だと、一枚目の画像(916番地と917番地の境)のすぐ東にマウンドらしきものが伺えますが、815番地付近ともども、古墳としては台地上ではなく、すぐ下りた場所というのが気になります。一番下の画像の真ん中の住宅がストリートビューで表示拒否してるのも気になりますが。やはり可能性としては上がった矢内原公園や東大敷地内があやしいのでしょうね。
- 2016/12/03(土) 20:34:15 |
- URL |
- あんけん #pysVlb7U
- [ 編集 ]
あんけんさま、こんばんは!
915番地も815番地も、区画の奥の方は一段高くなっているので、台地上縁辺部に存在したかと考えましたが、結局よくわかりませんでした。。。
- 2016/12/05(月) 18:16:01 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
- [ 編集 ]