
画像は大田区西糀谷3丁目にある「浜竹天祖神社」を南から見たところです。この敷地内にかつて存在したといわれているのが「薬師塚古墳」で、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号101番の古墳(円墳)として登録されています。
この「浜竹天祖神社」は以前は現在の「粷谷小学校」の敷地にあり、昭和12年の羽田第二小学校(粷谷小学校の旧名)拡張のために現在地に移転されています。この古墳について、昭和60年(1985)に東京都教育委員会により発行された『1985 都心部の遺跡』には「現在の天祖神社となっている地点に存在したらしい」とのみ書かれています。
さて、『東京都遺跡地図』を見ると、この大田区粷谷周辺には2基の「薬師塚古墳」が登録されています。1基はこの遺跡番号101番の「薬師塚古墳」で、もう1基は151番の「東糀谷薬師塚古墳」です。古い文献を調べると、151番の「東糀谷薬師塚古墳」に関するものは非常に多く、古くは江戸時代の『新編武蔵風土記稿』に記述を見ることができ、大正時代には大場磐雄氏の調査の報告が『歴史地理第47巻 第4号』「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」に紹介されています。同書ではこの古墳を「薬師塚」の名称で紹介していますが、「西糀谷大塚」から北東に約500mの地点にあり、最も海岸に接近している古墳である、としていますので、この「薬師塚」は151番の「東糀谷薬師塚古墳」を指していることがわかります。
これに対して101番の「薬師塚古墳」の資料は非常に少なく、東京都教育委員会により昭和65年(1985)に発行された『都心部の遺跡』のみです。同書では、この「薬師塚古墳」についての記述がある”文献”として『郷土研究講座2』に掲載されている「村の考古学」と、『荏原地域文化財総合調査報告』の「荏原地区における考古学上の調査」とありますが、これはどちらも大場磐雄氏の調査報告であり、『郷土研究講座2』の論文の参考文献も、先にふれた『歴史地理第47巻 第4号』「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」であることから、やはりこれも「薬師塚古墳」ではなく「東糀谷薬師塚古墳」を指していることがわかります。
これはあくまで推測ですが、『都心部の遺跡』発行の際の分布調査において何らかの手違いがあり、現在の「東糀谷薬師塚古墳」を「薬師塚古墳」の名称で現在の「浜竹天祖神社」の位置に登録したものの、後の『東京都遺跡地図』では正しい地点に「東糀谷薬師塚古墳」の名称で登録したのではないか、という可能性を感じます。ちなみに『東京都遺跡地図』に記載されている出土品は、「東糀谷薬師塚古墳」と「薬師塚古墳」ともに「土師器、刀」と書かれています。
もちろん、『都心部の遺跡』にある「現在の天祖神社となっている地点に存在したらしい」という記述が、分布調査における聞き取り調査で古老の証言があった等の何らかの状況証拠に基づいている可能性もありますし、あくまで考古学について素人の推測ではありますが、果たしてこの浜竹天祖神社内に本当に古墳が存在したのでしょうか。

画像は、「浜竹天祖神社」の境内のようすです。社殿の土台が少し高くなっており、古墳のマウンドの上に社殿を建立したという可能性も考えられますが、古墳の痕跡は全く残されていないようです。。。

<参考文献>
谷川磐雄「武蔵蒲田町に於ける沖積層地の原始時代遺跡」『歴史地理 第47巻 第4号』
東京都教育委員会「荏原地区における考古学上の調査」『荏原地域文化財総合調査報告』
大場磐雄「村の考古学」『郷土研究講座2』
東京都大田区史編さん委員会『大田区史(資料編)地誌類抄録』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/08/12(水) 03:01:11|
- 大田区/その他の古墳・塚
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