
現哲学堂公園の北東角、現在の新青梅街道と、新井薬師駅方面から千川通り方面に抜ける、地元では「鎌倉街道」と呼ばれる道路が交差する付近に道路を挟んで四ヶ所に存在したといわれているのが「四ツ塚」です。その名の通り4基の塚の塚の総称で、これも「豊島塚」のひとつであるといわれています。
鳥居龍蔵氏は昭和15年(1940)発刊の『風至』五巻二号の「上代の野方風至地区付近に就いて 三、四」の中でこの四ツ塚は古墳ではないかと推測しており、昭和18年(1943)に東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』でもこの四ツ塚を「江古田一丁目四ツ塚古墳群」の名称で古墳として紹介しています。しかし比田井克仁氏は著書『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』の中で「鳥居龍蔵は古墳説をとっているが、この地域で兜や刀を出土する古墳、すなわち五世紀~六世紀代のトップクラスの古墳の存在の可能性はきわめて低いため、この説は賛成できない」としており、古墳説には否定的です。
この4基の塚はかなり接近して存在しており、高さ約3m、径約3m程あったといわれています。明治40年頃の宅地建設の際にこのうちの1基が壊された際には、鉄の兜や腐った刀が人骨とともに出土しているようですが、その後、昭和10~15年頃に道路工事によりもう1基が崩された際には何も出土しなかったと伝えられています。これだけでは、この塚が古墳であったか塚であったかは何ともいえないところですが、残念ながら出土した遺物の所在はわからなくなっているようです。
『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』等の江戸時代の地誌類にはこの四ツ塚についての記述は見られず、また『風至』の鳥居龍蔵氏の文献の後ろには「この四ツ塚に就いては、古い文献の上にも現はれてゐない程、重視、否問題にしてゐなかったらしく記録がない。又土地にもこれに關する口碑さへ傳へられてゐない有様である。」と編集者の補遺が記載されています。つまりは、かつての四ツ塚は特に伝承等が残されていない無名の塚で、明治40年頃の塚の削平の際の兜や刀の出土により、その後豊島塚と呼ばれるようになったというのが真相のようです。

堀野良之助著『江古田のつれづれ』には4基の塚のうちの1基について、「哲学堂側にあった塚は、盛り土を哲学堂地内に移して面影を残された」と記されています。この盛り土は「哲学堂公園野球場」の北東角、グランドのバックネット裏の金網の内側に残されています。
画像はこの盛り土が残された地点を北東から見たところです。交差点の歩道の金網の奥に、うっすらと塚らしきシルエットが見られると思います。これが四ツ塚の唯一の痕跡といえるものですが、これは移築された塚と呼べるような代物ではなく、残土の山に篠竹が生い茂っているという状況で、残念ながら”面影を残す”というものではなく、また説明板等も存在しないようです。将来このグランドの工事でも行われれば、何も知らない工事関係者があっさりと撤去してしまいそうです。。。
この交差点は中野区と新宿区の区境に当たります。残された盛り土が中野区側に所在していることから今回の「四ツ塚」は中野区の塚として紹介しましたが、現在の行政区分に従うならば四ツ塚のうちの2基は西側の中野区内に、残る2基は東側の新宿区内に存在したということになります。

今回まで中野区内に所在したとされる七ヶ所の「豊島塚」と呼ばれる塚を紹介しましたが、古墳の可能性という点では、どの塚よりもこの四ツ塚に古墳の可能性を感じますが、残された遺物も存在せず、また発掘調査等も行われないまま塚は消滅していることから、真相はわかりません。ただし、もしもこの塚が古墳であれば、残された塚の残土の中に埴輪片などの遺物が紛れているという可能性は考えられるかもしれませんし、発掘してみる価値はあるかもしれません。
『中野区史 上巻』には、この四ツ塚の南側、妙正寺川を挟んだ対岸に「片山東南方高塚古墳群」と称される古墳群が存在したと記されています。また、上高田5丁目の「遠藤山遺跡」からは近年の発掘調査により計4基の古墳の周溝が検出されています。妙正寺川流域に所在するこの四ツ塚が古墳群であった可能性は十分に考えられるのではないかと思われますが、真相は今後の調査の進展を待たなければなりません。。。

四ツ塚の交差点から新青梅街道を西に四百メートルほど進んだ中野区立江古田公園の敷地内には、「史蹟江古田ヶ原沼袋古戦場」の碑と中野区教育委員会による説明板が建てられており、次のように書かれていました。
江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にい
たる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(1477)
太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(1454〜1482)と
いう長期にわたる内乱の中の戦でした。
享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関
東公方足利成氏と。太田氏が仕える関東管領上
杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により
管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きま
した。
この乱により関東は二分され、幕府などの支
援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をお
さえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とし
た道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、
戦を有利にすすめるために重要な役割をはたし
ました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た
豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立
するうえで、大きな意味をもっていました。
昭和五十七年二月
中野区教育委員会
妙正寺川のほとり、江古田公園のようす。ほんの何百年か前にはここで戦争をしていたとは信じられない、平和な感じです。。。
<参考文献>
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
堀野良之助『江古田のつれづれ』
須藤亮作『物語・豊島氏』
矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』
比田井克仁『伝説と史実のはざま―郷土史と考古学』
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- 2017/01/19(木) 01:00:58|
- 中野区の古墳・塚
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