
画像は、杉並区桃井1丁目の「お古里塚」が所在したとされる周辺を西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録の塚ですが、塚にはさまざまな言い伝えが残されており、古墳である可能性も指摘されているようです。
江戸時代の初め頃、この周辺は井口長佐衛門というお百姓さんの所有地だったことから「長佐衛門原」がなまって「チョウセンパラ」と呼ばれていたそうです。長佐衛門は当時、薄の原っぱだったこの土地にクヌギやコナラなどの落葉樹を植えて雑木林にした後、ところどころに畑を開墾しました。この林の中にはいくつもの塚が散在していたそうですが、その後大正の半ば頃にはほとんどの塚は開墾により消滅し、一番大きかったお古里塚が残されていたようです。
一説にはこの塚は、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経と太田道灌との間で行われた江古田・沼袋原の合戦の戦死者を集めて葬ったところで、鎧や兜、刀、槍などが埋められているために、これを掘り返すと”おこり”(熱病)になるという言い伝えがあり、このため誰も手をつけずに取り崩されなかったのではないかといわれています。
塚は、明治時代に周辺の小さな塚を取り崩したときに、鎧の破片らしい鉄屑が残っていたという話があり、お古里塚周辺にあった小さな塚も皆、太田軍の将兵の墓だったのではないかともいわれているようですが、この遺物は残されていないため真相はわかりません。また、戦後に塚の一部を整備した際に応安2年(1369)銘の板碑が出土していることから、江古田・沼袋原の合戦以前の古墳ではないかとする説があり、また塚は鎌倉時代に築造された塚に江古田・沼袋原の合戦の戦死者を併葬したもので、”おこり”になるという伝説は塚を保護するための作られた伝説ではないか、とさまざまな説があるようです。
昭和30年(1955)に発行された『杉並区史』では「あるいは古墳であるかも知れない」と古墳の可能性も指摘しているようですが、すべての塚が消滅してしまった現在では塚の性格を知ることは出来ないようです。。。
<参考文献>
森泰樹『杉並の伝説と方言』
森泰樹『杉並歴史探訪』
森泰樹『杉並風土記 上巻』
東京都杉並区役所『杉並区史』
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- 2017/01/23(月) 00:52:10|
- 杉並区の古墳・塚
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荻窪駅から桃井までの道程に、四面道交差点がありますが、昔は今の環八等はなく、日大二校通りから上荻2丁目に抜ける道と青梅街道が本道であったそうです。
また、近隣の天沼町は、古代の乗沼駅に由来する説が有ることから、この桃井一帯には古くからの歴史があるように感じます。乗沼駅の場所については、諸説ありますが…
- 2017/08/03(木) 20:33:45 |
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- 上荻の元住人 #-
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上荻の元住人さま、こんばんは。
コメントありがとうございます。
四面道交差点のななめの道は日大二校通りというのですね。ちなみに私は現在も杉並区民です。
善福寺川流域では、今のところ高千穂大学のものが最も上流の古墳であるようです。この上荻から桃井周辺に古墳が存在したかどうかは、調査が行われないと何ともいえませんが、私は小円墳群の存在は有り得るように思います。
- 2017/08/06(日) 23:27:40 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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高千穂大学一帯、特に成田西・和泉・堀ノ内の熊野神社を直線で結んだ三角形の中に、古代の不思議な宗教施設が集中しているようです。謎です。
確かに、上流の遺跡はここまでしかわかりません。しかし、豊島郡衙と武蔵国府のちょうど中間の光明院荻寺など、何かありそうな気がします。
今後の研究、是非頑張って下さい。応援しております。
- 2017/08/15(火) 19:43:33 |
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- 上荻の元住人 #-
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上荻の元住人さま、こんばんは。
確かに!三角地帯になっているようです。「古代の不思議な宗教施設」が気になるところですが。(すみません、勉強不足で)
杉並区から西側の多摩地域は、多摩川流域以外には古墳がまったく存在しなくなりますので、大きな集落が存在したのは杉並区あたりを境に武蔵野台地の東部で、東京湾内に注ぐ河川の沿岸地域かなと考えてます。
多摩地域についてもまだ色々調べてみようと思っています。
- 2017/08/20(日) 22:46:21 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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