
「山田古墳」は、あきる野市山田に所在する古墳で、『東京都遺跡地図』にはあきる野市の遺跡番号36番の古墳として登録されています。この古墳は、昭和47年(1972)に宅地造成の際に発見された古墳で、当時都立五日市高等学校の生徒と多摩考古学研究会の佐々木蔵之助氏らによって発掘調査が行われています。昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に、この調査の詳しい経緯が記されています。
(前略)この古墳は前方の地所を削って宅地化する際、ブルドーザーにより不用意に破壊され、廃土は即刻道路工事の埋め土にリレー式で捨てられてしまったため、これが古墳であったことの発見は、ずっと後のことであった。古墳は北側最奧の奥壁の部分が辛うじて残り、これが露呈していたために確認されたもので、遺物はなにもなく、調査は残された奥壁の部分と、北側外周に周溝の存在有無を確かめることで終わった。
石室の側壁となる積石は左右とも内側にせり出しの方法がとられ、一〇度前後の傾斜のアーチ型となっている。この積石は二重に組まれ、間隙は小石により補強されている。石室は半地下で、奥壁(鏡石)は巨大な一枚岩、幅一メートル余、高さ一・七メートル、断面は長方形と考えられる人為的な形成がなされたもので、材質は五日市近辺産出の、小仏層中にみられる粘板岩を用いてあった。石室を作るためには幅四メートルの堀下げを行い、中に二重の石垣を含めて幅二メートル、胴張りの内法約一メートル、高さ一・七メートルの石室を構成していて、奥壁の面は西南面より一六度西にふれていた。この地は秋川河岸段丘の縁に近く、礫層の堆積土のため、周溝についてはその存在は不確かで、恐らく水 はけのよい場所なので、設けられなかったのかもしれない。
これらを総合するに、石室の大きさからして、当地方の積石塚古墳のうちでは大きく立派な古墳の一つであったことを想像してよいであろう。(『五日市町史』54~55ページ)
画像が「山田古墳」の所在地周辺のようすです。道路右側の区画のどこかに古墳が存在したものと思われますが、周辺は宅地化が進み、古墳の痕跡を見つけることはできません。思えば、民家の敷地内に残されている可能性は考えられるのでピンポンしてみればよかったかもしれないのですが、この古墳に関してはなぜかあまり深追いをしませんでした。。。
<参考文献>
五日市町編さん委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/13(月) 00:06:53|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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