
画像は、調布市飛田給1丁目に所在する「行人塚」を南東から見たところです。『東京都遺跡地図』には、調布市の遺跡番号62番の塚として登録されており(遺跡範囲のすべてが調布市指定史跡飛田給薬師堂境内行人塚となっている)、昭和49年(1974)には調布市の史跡として指定されています。
調布市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。
市史跡
行 人 塚
所在 飛田給一丁目二十五番地 薬師堂境内
甲州街道と大山海道との交差点
指定 昭和四十九年七月十二日
この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。
伊達藩士にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心
があつく、各地の仏閣廻拝の心を遂げようと、諸国遍歴の末ここ
に足をとどめた。その後、意仙は石仏説明のとおり、薬師如来像
をつくり、大願成就後、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだと
きは、わが命のつきたときである」と言い残してその中には入り
端座叩鉦誦結三昧の末、元禄十五年(1702)一月十二日に入定した
という。
その死後、村人によって塚が築かれて行人塚と呼ばれている。
意仙の感化は、里人はもとより近隣にもおよび、その慈悲の深
さに人々は敬拝し、碑を建てて信仰に励んだといわれている。郷
土の民間信仰史上三百年の長い間にわたり、今日なお大きな宗教
的感化を残している。
現在のこの塚は、昭和47年に改修されたもので、この工事の際
に専門家が発掘し、遺骨の存在が確認された。
昭和六十三年三月二十四日 調布市教育委員会 2月24日に発売され、ベストセラーとなっている村上春樹著『騎士団長殺し』には、祠の裏側の小さな石の塚から鈴の音が聞こえてくるというシーンがあり、この入定塚と想定される塚の石室から鈴が掘り出されます。石室には入定した行者の遺骨は存在せず、騎士団長が世に解き放たれてしまうわけですが、この調布の行人塚は、薬師堂の改修が行われた昭和47年(1972)に発掘調査が行われています。この塚に入定したという松前意仙は自ら墓穴を掘って入り、21日間鉦を叩き続け、鉦の音が途絶えたら埋めて呉れと遺言して入寂したといわれていますが、発掘の際には、座禅を組んだままの姿勢で白骨化した、かなり大柄のたくましい男性の遺骨が発見されたそうです。ただし、不思議なことに、21日間叩き続けたといわれる鉦は出土しなかったそうです。。。
<参考文献>
中西駿郎『調布のあゆみ』
現地説明版
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- 2017/04/09(日) 00:47:54|
- 調布市/その他の古墳・塚
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