今回は布田九塚シリーズの最終回、『布田九塚 その3』と題して、広範囲に分布したと考えられる布田九塚のうち「上布田古墳群」の範囲内に存在したと思われる塚の推定地を探っていきたいと思います。今回も、地元の郷土史家である石森直吉氏により書かれたという塚の所在地を記した手書きの地図とわずかな文献のみが手がかりですが、おおよその位置を推定出来る塚を紹介しようと思います。

画像は、布田九塚の手書きの地図の、上布田古墳群中南東側に位置する塚の跡地周辺のようすです。比較的大きな塚である円形のマークが記されており、カタカナで「ツカ」とのみ書かれています。東西に走る品川道と、南北に走る調布駅に向かう白山通りが交差する辻の南西角に所在したと推定される塚で、画像の、弧を描くようにカーブする道路の左側あたりに塚が存在したと考えられます。この道の形状も、塚の痕跡である可能性も考えられるところですが、詳細はわかりません。周辺は完全に宅地化が行われており、塚の痕跡は全く残されていないようです。

この場所は断片的にわずかに残る品川道の旧道で、「旧品川みち」の標識と、調布市教育委員会による「旧品川道」の説明板が設置されています。説明板には次のように書かれています。
旧品川道(いかだ道)
この掲示板の脇に東西につながる道は、かつ
ての品川道である。
この道は、今の府中に武蔵国府がおかれたこ
ろ、相模国から国府に行き来する旅人たちの交
通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街
道であったという。また、府中の大国魂神社(六
社宮)の大祭にさいして清めに用いる海水を、
品川の海から運ぶための重要な道であった。
この品川道は、府中から調布を通り、狛江・
世田谷を経て、品川の立会川付近で東海道に結
ばれていたといわれている。
近世になると、筏乗たちが多摩川の上流から
河口まで材木を運びその帰り道に利用したので、
「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由
緒ある品川道も、今では市内のところどころに
残るのみである。
(国府は政府の出先機関としての役所)
平成元年二月十日
調布市教育委員会 帰宅後に画像をチェックしていて気がついたのですが、中央に見えるのは火の見櫓だったのですね。いつだったか瑞穂町を探訪していて、火の見櫓の存在が妙に気になっていたのですが、古墳の痕跡ばかりを気にして、あまり空を(上を)見上げなくなってしまっているなあと、妙な反省をしました。。。

画像は、調布市布田5丁目に所在する「白山宮神社」を東から見たところです。布田九塚の手書きの地図には、この白山宮神社と思われる鳥居が描かれており、この西側に円形の塚マークが記されています。名称はなく、大きさからしてかなり小さな塚だったのではないかと推定されますが、周辺の古墳の分布状況や府中崖線からの距離からすると、古墳であった可能性も考えられる、気になる塚です。

画像は白山宮神社境内のようすです。少なくともこの敷地内に塚の痕跡は見られません。塚の推定地と考えられる社殿の西側の地域も宅地化が進んでおり、やはり塚の痕跡は残されていないようです。
さらには、白山宮神社南側の三軒家と呼ばれる地域にも、鳥居のマークの西側に同じような小さな塚のマークが記されています。この塚に関しては、神社か祠の存在も発見できず、塚の痕跡も見つけることは出来ませんでした。戦後の空中写真等で確認すると、まだ宅地化される以前の畑の中にポツリと塚かもしれない影を見ることが出来るのですが、現在のこの周辺は宅地化が進んでいます。

画像は、2017年3月25日付『古墳なう』の「上布田4号墳(庚塚)」の回でも紹介した、庚塚跡地と推定される南側の民家の敷地内に存在する祠です。布田九塚の手書きの地図にある「カナモリイナリ」と書かれた稲荷はこの祠ではないかと思われるのですが、確信はありません。最近になって画像を見てみると、祠の周囲に石造物らしき存在があり、もしこの石造物の中に庚申塔があればこの場所が庚塚で間違いないと思うのですが、散策している当日は気がつかず、確認しませんでした。。。

布田九塚の地図では、「カナモリイナリ」の鳥居のマークの南側に小さな円形の塚マークが記されています。庚塚の跡地と推定されている場所は祠の民家の北側の駐車場の場所ですので、地図とは矛盾するのですが、この地図が描かれた当時は塚の北側に祠が祀られていたのかもしれませんし、真相はわかりません。
現地を散策すると、祠の北側の道路の形状が弧を描くようにS字にクランクしていて、古墳の痕跡ではないかと妄想してしまいます。。。

画像は、2017年3月23日付『古墳なう』で紹介した「上布田3号墳(飯盛塚)」の跡地周辺のようすです。道路が左に折れ曲がった右側あたりが飯盛塚の跡地です。布田九塚の地図では、実際の道路の曲がり方と逆になっていてわかり難いのですが、この周辺の道は昭和初期から変わっていないようなので、この道路の曲がり方は古墳の痕跡といえるかもしれません。。。

「布田九塚」の最後は、「古天神」と書かれたかなり大きな円形のマークの塚です。この古天神とは、現在は甲州街道の北側に移された「布多天神社」の旧地を指す名称で、文明9年(1477)の多摩川の洪水のために移されたといわれています。この神社は「延喜式神名帳」に記載されている古社で式内社多摩八座のひとつであり、現在の布田5丁目53番地周辺が伝承地とされています。
宅地化が進む以前のこの場所は雑木林となっており、これは戦後の空中写真等で確認することが出来ます。これを現在の地図と重ね合わせると、布田九塚の地図にある円形のマークの塚が発掘調査により存在が確認された3基の古墳のいずれかであると仮定すると、「古天神1号墳」である可能性を感じます。この地図が書かれた当時は、雑木林の中に古墳の墳丘が残されていたのではないかと思われますが、これも真相はわかりません。
画像は、「古天神2号墳」が保存されている「市立古天神公園」のようすです。
さて、ここまで「布田九塚」と呼ばれた、古墳の可能性も考えられる塚の跡地をめぐってみました。調布市の郷土研究家である故石森直吉の手記、『たづくりを巡りて』には、「扇台塚」や「砂利塚」といった、所在地不明の塚の名称も存在します。また、府中崖線から一段下がった崖下の水田地帯にも、「三本松塚」、「神明塚」、「不動の森塚」といった名称の塚が存在したともいわれています。
今後の調査により、これらの未確認の塚の所在が明らかにされる日を楽しみに待ちたいと思います。。。
<参考文献>
調布市市史編集委員会『調布市史 上巻』
調布市史編纂委員会『調布市史 民俗編』
多摩中央信用金庫『多摩のあゆみ 第52号』
現地説明版
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- 2017/05/06(土) 01:35:35|
- 調布市/その他の古墳・塚
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