「一本松古墳(西岡第25号古墳)」

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「一本松古墳(西岡第25号古墳)」

 画像は、田園調布五丁目にある「急坂」を南西から見たところです。大正末期に行われた耕地整理によりできた坂道で、戦後になって自然発生的にこの名で呼ばれ始めたそうですが、その名の通りかなり急な坂道で「五丁目の急坂」とも呼ばれて地元の人に親しまれているそうです。(運動不足の私にはとても坂道を親しむ気持ちにはなれませんが…)
 この坂道を登り切った正面のあたりに所在したとされているのが「一本松古墳(西岡第25号古墳)」です。すでに宅地化により古墳は消滅しているようですが、『東京都遺跡地図』には大田区の遺跡番号14番の古墳(円墳?)として登録されています。この古墳は、後に大田区立郷土博物館の館長を努める西岡秀雄氏により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されており、この調査報告が掲載されている「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』には次のように紹介されています。

第二十五號古墳(俗稱)一本松古墳 
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡東調布町大字上沼部
      新地名 東京市大森區田園調布四丁目一四
(型式)圓型墳
(現況其の他)高橋正人・高橋哲太郎・大沼帝帯刀の諸氏が一部發掘され土器片を得られたが、詳細未だ不明で、現在は封土の周圍大部分崩壊してゐる。高さ約四•五米。
(『考古学雑誌 第26巻 第5号』315ページ)



「一本松古墳(西岡第25号古墳)」

 同書によるとこの古墳は一部発掘されているようですが、埋葬施設や埴輪等の記録はなく、出土品は土器片のみであるようです。平成12年(2000)に発行された『郷土誌 田園調布』にも、この一本松古墳の当時を知る地元の人の「骨は出なかったが土器が出土した」というコメントが掲載されています。
 昭和60年(1985)に東京都教育委員会より発行された『都心部の遺跡』には、「古くから住んでいる人の話によると30年前にすでに塚状の高まりはなかったとのこと。墳形はひさご形だったそうである。前方後円墳であった可能性も推定される。」との記述を見ることが出来ます。ただし、「西岡第19号古墳」と同様にこの古墳は古地図に塚の位置が記されていますが、この地図には円形の塚が記されています。場所に古墳らしき塚が存在したことは間違いないようですが、古墳が消滅してしまった今、墳形まで推定することは難しいようです。。。

<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
社団法人 田園調布会『郷土誌 田園調布』


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