
瑞穂町武蔵周辺は、まだ畑地が多く残されているにもかかわらず広く区画整理が行われており、また横田基地の敷地に取り込まれた場所もあり、古い道の多くは姿を消してしまっています。この周辺には多くの塚が存在したといわれており、その多くは古道の交わる辻のところに造られていたようですが、残念ながらすべて消滅してしまっているようです。
画像は、西多摩郡瑞穂町武蔵に所在したとされる「石経塚(いしんぎょうづか)」の跡地と思われる周辺を東から見たところです。瑞穂町教育委員会より発行された『瑞穂の地名』にはこの塚について次のように書かれています。
「石経(いしんぎょう)塚 二本榎を越し八王子道を南に進むと、石畑駐在所の方から来た道(川島製本の西側の道はずっと南まで伸びていた)と交わる。ここでは更に西に屈曲して福生街道に交わる道を派生させ他のもう一本の野道を合わせて六道の辻になっている。この交差点に石に経文を記し、供養をした塚を築いた、石経塚と呼ばれるものである。」(『瑞穂の地名』18ページ) 石経塚の所在地である六道の辻の正確な場所はわかりませんが、戦後の空中写真と現代の地図とを重ね合わせて、だいたいこのあたりではないかというのが画像の場所です。区画整理により古道は消滅しているため塚が存在した当時の地形を見ることはできませんが、農地となっている周辺一帯を見回しても塚らしき痕跡を見ることはできません。

この周辺を散策していて、地元の農家の男性とお話をする機会があったのですが、この男性曰く、「あの一本の木が生えているあたりに塚があったと思うなあ…」とおっしゃっていたのです。畑の中にぽつんと一本だけ存在する、とても目立つ木です。それで、石経塚と出土した経文を記した石の話をしてみると、「そういわれてみると、あの木の根本のところに石が集められていたような気がするから行って見てみるといい…」ということで、この木のところまで歩いて見たところ…

本当に木の根本のところに石が集められていたのです。これにはかなりびっくりしましたが、いくつか石をひっくり返してみたところ、経文が記された石は存在しないようです。長期間雨ざらしにされていれば墨書きされた経文は雨に流されて消失しているかもしれませんし、真相はわかりません。瑞穂町の郷土資料館でお聞きしたところでは、経文が書かれた礫石経は郷土資料館の倉庫に保管されているそうなので、この場所に石が集められているのは単なる偶然なのかもしれません。。。

画像は、府中市のふるさと歴史館に展示されていた、「三千人塚」から出土したという礫石経です。この石は江戸時代後期のもので、「佛」「法」「濁」「是」「却」などの法華経の文字が墨書きされています。

画像は「狐塚」の跡地とされる周辺です。この塚も、正確な跡地はわからなくなっているようですが、地元の農家の男性でお聞きして、「この辺りだったはず」と地図上で示された場所です。あとで昭和初期の空中写真で確認したところでは、確かに塚らしき影が見えるようにも思います。発掘調査等は行われていないため、塚の性格は不明です。。。
<参考文献>
瑞穂町教育委員会『瑞穂の地名』
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- 2017/05/29(月) 23:28:52|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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