
画像は、瑞穂町大字箱根ケ崎にある「加藤神社」を南から見たところです。この神社の境内には、『東京都遺跡地図』には未登録であるものの、瑞穂町の史跡として指定されている「加藤塚」が所在します。多くの伝説が残されている塚ですが、古墳を流用したものではないかとも考えられていたようです。
この神社と塚については、古くは江戸時代の地誌類に多くの記述が見るられ、『武蔵名勝図会』には「加藤景忠の墳 箱根ヶ崎村。日光街道より一町程西の方田圃の中に塚あり。円径六間許。高さ五尺なり。」と書かれています。説明板にある「直径11メートル、高さ1.5メートル」という塚の規模は、恐らくはこの武蔵名勝図会の記述を参考にしているのかと思われます。また、『新編武蔵風土記稿』には「民家より南二十間許をはなれ、田圃の間芝地六間に五間許の所なり、そこに五輪の毀れたる三基あり、これ加藤丹及び妻子の碑なりといへども、文字は剥落したれば讀がたし、また塚上に獨窓院明天清月居士、梅林院清香妙通大姉と云を正面にえり、左に天正三年乙亥十二 月十二日、兩體同加藤氏法號とえり、右に施主師井四郎右衛門とえりたる長三尺、幅九尺許の碑あり、また塚の下右の傍に、正面には安宗徹心居士の塔、左は于時天正十壬午四月十二日、於此所義死、右には加藤丹後守家臣、俗名溝口彦右衛門尉行輝とえりたる、高さ三尺余、幅六寸許の碑あり、この外塚上に加藤父母三名の法號えりたる碑もあり、」と、この当時、五輪塔が3基と石碑が3基存在したようすが書かれています。

画像が、南から見た現在の加藤塚です。昭和9年(1934)に多摩史談会により行われた第六回見学会の『狭山・箱根ケ崎村方面の記』にはこの塚についての記述が見られ、「そこで一行は其の丹後守一家の墳墓の地へ弔いに出かけた。墳墓は径六間高五尺位の円墳上にあり、大なる欅がある。欅の樹齢も正に天正頃のものであろう。五輪の塔が三基ある。その五輪も正に天正頃のものである。が一基だけ立って居って、二基は散乱して居る。(後略)」と書かれています。
おそらく戦前頃までは原型が保たれた状態で残されていたものと思われますが、昭和18年(1943)の行幸道路の建設の際に境内が道路により分断され一部が破壊。その後、戦後の横田基地の滑走路延長の際に、航空機の離着陸に障害が出る恐れがあることから塚上の大樹が伐採され、この際に塚の破壊が大きく進んだものの、この時点では塚の範囲は確保されていたようです。そして、昭和50年代に行幸道路から国道16号線となった際の拡張工事において塚の半分ほどが削平されて消滅したようです。そして、平成23年(2011)、東京都による道路整備事業に伴う発掘調査が行われ、その後の都道拡張工事により塚は消滅。移設された加藤神社の北側に築山が復元され、遺された墓石が安置されて塚が復元されています。
周溝等が確認されなかった状況や、封土中から出土した遺物から、この加藤塚は古墳ではなかったと考えられ、また調査時にすでに塚の中心部分が破壊されて消滅していたことから、この塚が墳墓であるという確証は得られなかったようですが、人工的に築造された塚であることは間違い無いようです。

現在の加藤塚前には瑞穂町教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
町旧跡 加藤塚跡地
所在 東京都西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎三一五番地
指定 平成二十五年』二月二十八日
武田氏の滅亡後、その家臣であった加藤丹後守景忠は妻
子及び数名の家来をつれて当地まで逃れてきた。多磨郡を
越えて入間郡に入る事ができずこの地で果てた。天正十年
(一五八二)四月十一日のことである。
村民はその死をあわれみ、直径十一メートル、高さ一、
五メートルの塚を築き葬った。二基の五輪塔はその当時の
ものと思われる。
寛政年間(一七九〇年代)に至り、加藤氏の後裔といわ
れる上野原の加藤最次郎が石塔を建てたり、練馬区の子孫
が円福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民
の間にも信仰の念が深まり、加藤八幡宮が建立された。
塚の上には、周囲約八メートルの大欅をはじめ、杉・桜・
くぬぎ等の大木が茂っていたが戦後航空障害と都道百六十
六(旧国道十六)号線の開通のため伐採された。そして、
この度、都道拡張に伴い、塚を現在の地に移し、社も新築
した。それに伴って、町史跡だった加藤塚を町旧跡と改め
た。
平成二十六年三月三十一日建立
瑞穂町教育委員会
加藤塚の北東数十メートルのあたりには、加藤丹後守の妻の墓とされる「姫塚」が存在したといわれています。『武蔵名勝図会』にはこの姫塚について「これは丹後守が室を埋めたる塚なりと云う。塚の広狭、景忠が塚に同じ。景忠が古墳より廿間余離れて、民居の変にあり…」と書かれており、廿間余ということはおそらく、加藤塚から北東に40~50メートル程の場所に姫塚が存在したものと思われます。
昭和9年(1934)に多摩史談会により行われた第六回見学会の『狭山・箱根ケ崎村方面の記』には「風土記にある姫塚に行って見たら、如何にも貧弱なものとなって仕舞った。土地の人が姫塚と称え、風土記に載って居るから、成程と言うものの、然らざれば、何んとも分らない姿となって居る。」とあり、戦前にはすでに塚の破壊が進んでいたようですが、現在は姫塚は完全に消滅しており、その位置さえも分らなくなっているようです。
画像は、姫塚の跡地と思われる周辺のようすです。『町指定史跡 加藤塚』に掲載されている遺跡の分布図に記されていた場所で、加藤塚の北東40~50メートル程の地点です。残念ながら塚の痕跡は何も残されていないようです。。。
<参考文献>
瑞穂町役場『瑞穂町史』
瑞穂町史編さん委員会『瑞穂小史』
東京都建設局西多摩建設事務所・瑞穂町教育委員会・株式会社武蔵文化研究所『町指定史跡 加藤塚』
現地説明版
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- 2017/05/30(火) 23:46:36|
- 武蔵村山市•瑞穂町の塚
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