
さて、今回は、平成28年(2016)10月30日に取り上げた「笹塚」についての追記です。
実はその後、幡ヶ谷の一里塚が存在したという当時の土地所有者の現在の当主の方のご好意により、幡ヶ谷の一里塚に建てられていたのではないかとされる石碑を見学することができました。
最初に更新した記事の中ではこの石碑についてはふれなかったのですが、この地域の郷土誌には、一里塚に建てられていたとされる標識碑についての記述が見られます。
明治6~7年頃に書かれたという『東京府志料』には
日本橋区通一丁目二丁目の間に於て東海道より西折し、呉服橋を経て旧日比谷門に至り、麹町隼町一番地に至りて日本橋より一里、此に第一の標を建つ、夫より内藤新宿三丁目二十四番地に至り二里一町二十五間、此に第二の標を建つ、夫より幡ヶ谷村五十五番地に至り此にて三里第三の標を建つ、夫より和田村と代田村松原村の間を経て下高井戸村八十八番地に至りて四里、此に第四の標木を建つ。 とあり、さらに『幡ヶ谷郷土誌』には、
幡ヶ谷一丁目四番地先に在った小堆塚の上の礎石上に建った標識碑こそ、東京府志料に言ふ幡ヶ谷村五十五番地先の一里塚標である。と言ふのも此の書を編むに當って少年時代の記憶を慥ならしめるために、同地點の地先土地所有者であり、前記志村兵四郎邸の當主である志村兵吉氏(明治廿三年生)と面語したのであるが、その時同氏は曰ふ。この八寸角程の標識碑の上部二尺程の破碑が嘗ての道路改正工事の際に掘出され、同氏の所有地内に投棄されてあった故熟視したが、それの建立歳月は忘却したが碑の一面に品川縣云々と刻まれてあり、この品川縣といふのが面白かったので未だに忘れずと、そして更に語を継いでこれの礎石の三尺四方もあるかと思はれたものは、建立當時の儘に地中に埋没されて居るであらうし、前記上部破碑は今も同氏所有地内の何所かに在る筈であると。
當村が品川縣下を称したのは明治二年二月から同四年十一月までである。としたならばこの標碑がけんりつされたのはこの期間内であったといふ事は明かであり、前記東京府志料編纂の歳次とも略ぼ一致して居る點から考察して、幡ヶ谷の一里塚の建立地點は此所であったと言ふ事も確然とする。 と書かれています。
従って、当日はこの「品川縣云々」と刻まれているという標識碑が残されているものと、現地を訪れてみたところ…

というわけで、画像がその石碑です。
『幡ヶ谷郷土誌』にある「八寸角程」よりはわずかに細い、六寸くらいかなという印象で、長さも『幡ヶ谷郷土誌』にある「上部二尺程」よりも若干小さい、一尺から一尺半くらいかなという印象で(正確に測ったわけではありませんが)、幡ヶ谷郷土誌が書かれてからかなりの時間が経過していますので、破損等があって小さくなってしまったのかもしれません。

と、そこで気がついたのが石碑に刻まれた文字なのですが、四面あるうちの三つの面には「内藤新宿」と刻まれており、さらにその下部にも何らかの文字が刻まれていると思われますがこれは不明。そして、残る一面は、1字目は「吹」に似たような漢字ですが正確にはよくわからず、2字目は「治」、3字目は漢数字の「三」で、4字目は健康の「康」の字に似ているように思いますがよくわからず。判読できるのは「○治三○」で、5文字目以降も何か刻まれているようなのですが、これも不明です。つまり、『幡ヶ谷郷土誌』にある「品川縣云々…」と刻まれた石碑ではなく、おそらくはまったく別の存在である「内藤新宿」と刻まれた標識碑だったのです。
この石碑は、現在の土地所有者である当主が今から6年前、敷地内の集合住宅の建築の際に、その工事により掘り出された石碑を自宅内に保存しておいたものであるそうですが、どういう経緯でこの幡ヶ谷の地に存在することになったのでしょうか。

私はこの道のプロではありませんので真相はわかりませんが、内藤新宿とは、江戸時代に設けられたとされる、甲州街道に存在した宿場のうちの日本橋から数えて最初の宿場であり、現在の地番で新宿区新宿1丁目から3丁目の一帯にあたります。つまり、甲州街道最初の一里塚が存在したとされる「新宿追分」の周辺が内藤新宿です。「新宿追分」の一里塚にあった標識碑が、何らかの事情でこの幡ヶ谷の地に移されたのか、それとも一里塚とはまったく無関係の石碑が幡ヶ谷に移されたのか、謎はむしろ深まるばかりです。また、品川縣と刻まれているという幡ヶ谷の一里塚本来の標識碑も、所在は不明のままです。
ここから先は、専門家の調査や研究の結果を待つしかないと思われますが、果たして真相が解明される日がくるのかどうか、とても楽しみです。
当日は、所有者の方に貴重な時間をいただいて見学させていただきました。楽しい時間をありがとうございました!
【このブログの過去の関連記事】
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-633.html (2016年10月30日号「笹塚」その1)
http://gogohiderin.blog.fc2.com/blog-entry-758.html (2017年09月11日号「新宿追分 一里塚跡」)
<参考文献>
東京府豊多摩郡『豊多摩郡誌』
堀切森之助『幡ヶ谷郷土誌』
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- 2017/11/17(金) 00:08:22|
- 東京の一里塚
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| コメント:2
こんにちは、あんけんです。
幡ヶ谷だと明治3年に新たに設置した新一里塚なので、文字は恐らく「内藤新宿より一里品川縣」と続いてたものと思われます。横面も「明治三庚午・・・」ではないでしょうか?起点が新宿御苑の所になったので、もとの一里塚とは結構離れてますね。現在では三里目の給田だけ碑が残ってるハズですが、上部とはいえ幡ヶ谷にも残ってたんですね。
- 2017/11/17(金) 12:30:52 |
- URL |
- あんけん #pysVlb7U
- [ 編集 ]
あんけんさま、こんばんは。
「内藤新宿より一里品川縣」ということは、この標識碑は内藤新宿のものではなく幡ヶ谷のもので、これが『幡ヶ谷郷土誌』に書かれていた碑ということになるかもしれませんね。真相が判って、ちょっと心が落ち着きました!
- 2017/11/19(日) 18:56:35 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #gQ5tgH1Y
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