
「西岡7号墳」は、世田谷区野毛2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号129番の古墳(円墳)として登録されています。
後に大田区立郷土博物館の館長を努めることになる西岡秀雄氏は、1930年代に荏原台古墳群の詳細な分布調査を行っており、この西岡7号墳も把握されているようです。この調査結果が掲載されている『考古学雑誌』には次のように書かれています。
第七號古墳
(所在位置)舊地名 東京都荏原郡玉川村大字下野毛字大原
新地名 東京市世田谷區玉川野毛町
(型式)圓型墳
(現況其の他)以前は畑中に高さ約二米ばかり其の形を留めしも、現在は全く原形なく、其の位置すら多少不明になり、直接切崩しに従事した者に聞くも、床石と思はれるものが出たと云ふのみにて其の他の出土品等に関しては要領を得ない。(『考古学雑誌 第26巻 第5号』310ページ) この当時、すでに原形を留めないほど崩されていた西岡7号墳はすでに埋葬施設も破壊され、その床石のみが残されていた、という状況なのでしょうか?
その後、昭和57~59年(1982~1984)に東京都教育委員会により実施された東京都心部遺跡分布調査の際にもこの古墳は取り上げられており、『都心部の遺跡』には次のように書かれています。
118 西岡7号墳
世田谷区 129 世田谷区野毛2-22
①台地縁辺
②宅地
③湮滅
④円墳
⑦67・121
⑧(第8図)
(①占地状況 ②現況 ③遺存状況 ④墳形 ⑤主体部 ⑥副葬品 ⑦文献 ⑧所見、備考)
戦前には痕跡が残されていたといわれる7号墳ですが、昭和の終わりには完全に消滅してしまったようです。
『都心部の遺跡』や『東京都遺跡地図』の分布図、また、発掘調査報告所等に掲載されている分布地図を参考にすると、古墳の所在地は画像の送電線の鉄塔のあたりか、もしくはその奥の民家のあたりかと思われるのですが、古墳の痕跡はまったくなく、正確な所在地がどこになるのかよくわかりません。
送電線の鉄塔の土台の部分に弧を描くような円形の地形が見られることから、まさかこれが西岡7号墳の残存部分か?と心躍りましたが、深呼吸してから考えてみて、そんなわけはないだろうという結論に至りました。冷静にならないと、円形の盛り土がすべて古墳に見えてしまいます。笑。
<参考文献>
西岡秀雄「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
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- 2017/12/26(火) 23:21:36|
- 世田谷区/野毛古墳群
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