
さて、今日からしばらくは、狛江市内の古墳を(古墳ではないかと思われる塚も含めて)取り上げていこうと思います。私は、何年か前に狛江市の古墳巡りに夢中になっていた時期があり、その頃はかなり色々と調べてみました。この『古墳なう』で一定期間取り上げたこともあったのですが、すべてを紹介することなく途中で止まっていて、いつの間にか時間が過ぎてしまっていました。もう少し調べればまだ色々判るのではないかと考えて、詳細のわからない古墳をついつい後回しにしてしまう部分もあったのですが、ここでちょっと方向転換!わからないものはわからないものとして(後でなにかわかったことはその時に書き加えることにして)廻った古墳はどんどん公開していこうと思います。
画像は、狛江市中和泉5丁目に所在する「山谷庚申塔」です。平成5年(1993)に完成したという銅板葺きの庚申堂には2基の青面金剛像が納められています。
敷地内には、山谷庚申講による説明板が設置されており、次のように書かれています。
山谷庚申塔
この庚申塔は狛江市に二十五基残っているもの
のひとつで、本尊は青面金剛といい、右側が宝永
元年(一七〇四)、左側が文化元年(一八〇四)に
建立されたものです。宝永の塔の青面金剛像は合
掌し、斧・矢・索(縄)弓を持っており、他の青
面金剛像が持っている矛・宝輪ではなく、そのか
わりに斧や索を持つ例は珍しいとされています。
開墾・五穀豊穣を祈願したのかも知れません。
上部左右には日月、青面金剛像の下には大きな三
猿、基部には蓮の葉と蕾が彫られています。
そして「奉造立庚申像一尊武州多麻郡和泉村 敬
白/千時宝永元甲申天霜月良辰同行三十壱人」の
銘があります。
庚申とは干支の「かのえ・さる」を指し、六十
日ごとにめぐってくる庚申の日には、夜を徹して
庚申様に長寿を願う行事を行ってきました。これ
を庚申待ち、または 庚申講と言います。
この行事は中国の道教に由来しており、俗習とし
て日本に伝わってきました。
また、この地域は 江戸時代より山谷(さんや)
とよばれており、山谷庚申講はその地名とともに、
今でも脈々と受けつがれています。
銅板葺きの庚申堂が完成したのは平成五年です。
現在は長寿・家内安全・商売繁盛・交通安全など
を祈願する場所になっています。
敬白
平成二十二年十一月 山谷庚申講
狛江古墳群は昭和35年(1960)に分布調査が行われており、当時の「狛江古墳群地名表」には1番に「長者塚」が、また2番に「宗超庵」が掲載されています。当時すでに削平されていたというこの2基の古墳(?)は、ともに「和泉19番地」と記されています。この19番地がどこにあたるのかピンポイントに特定することはできなかったのですが、入手した古地図では「山谷庚申塔」の並びの北西側が20番地、南東側が18番地となっており、その間の山谷庚申塔の周辺が19番地である可能性は高いように思います。この山谷庚申塔が、かつて存在したというマウンドに関係があるのではないかと想定して調べていましたが、残念ながら真相はわかりませんでした。
昭和35年作成の狛江古墳群地名表は古墳とは無関係のマウンドが記載されていた例も多く、また記されている地番も記載ミスが多かったようなので、塚が消滅してしまった今となっては何ともいえないところですが、この庚申堂はとても気になる存在です。。。
<参考文献>
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市教育委員会『文化財ノート3 狛江の庚申塔』
狛江市教育委員会『文化財ノート24 狛江の庚申講』
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- 2018/01/15(月) 23:45:06|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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