
画像は、狛江市元和泉1丁目の「泉龍寺」を南から見たところです。
泉龍寺境内の説明板によると、曹洞宗寺院の雲松山泉龍寺は、奈良東大寺の別当として名高い良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れ、法相宗の奥義を広めたことに始まるとされています。天歴3年(949)には、増賀聖が廻国の折に天台宗に改めて境内をひらき、堂宇を建立しましたが、中世の戦乱期には寺は荒廃し、草庵だけとなっていましたが、ここに、槽洞宗通幻派の桂破泉祝和尚が行脚中に訪れ、堂宇を建立して寺を復興し、多くの僧徒が参集しました。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国後には、和泉村の領主、石谷清定が瑞牛和尚に帰依してともに諸堂を整備しました。江戸時代には徳川将軍家から朱印地20石を拝領し、境内は1万6,900坪に及んだといわれています。

この泉龍寺境内には「印塔塚」と呼ばれる古墳が所在したといわれています。
この古墳は、昭和35年(1960)に行われた狛江古墳群の分布調査の際に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には44番の「円墳」として取り上げられています。同書には「若干起状があり径10m前後を推定 台地の南側縁辺に近い位置」とあり、当時すでに破壊を受けて若干の起状となっているものの、まだ痕跡の残されている古墳のようすが記されています。
その後の昭和51年(1976)の調査の記録には「泉龍寺境内の北部にあり、現在は墓地となっており、ほとんど削平されている。わずかな微高を示し、その範囲は径26m程度である。」とあり、この時期には古墳は墓地として改変されていたようです。
その後、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』には、この古墳は記載はなく、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
画像は、泉龍寺本堂北側の印塔塚の所在地とされる周辺のようすです。実際に現地を訪れて肉眼で見てみると、画像中央の通路の部分が盛り上がっているようすが観察できるのですが、写真で見るとちょっと判りにくいかもしれません。古墳の所在地とされるほぼ全域が墓地として使用されていることから、発掘調査が行われる可能性等はちょっと考え難いところですが、このわずかなマウンドが古墳の痕跡と考えて差し支えないのではないかと思います。
「印塔塚」という名称からして、墳丘のどこかに宝篋印塔が建てられていたのではないかと思うのですが、この宝篋印塔の存在は確認することが出来ませんでした。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2018/01/26(金) 22:51:57|
- 狛江市/狛江古墳群(和泉)
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