
狛江市岩戸北に所在したとされる古墳が「野屋敷塚」です。
この古墳はすでに墳丘は消滅して存在せず、伝承のみに残されているという古墳で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
古くは、59基の古墳が記載されていたという『狛江百塚』に記述があり、「わずかにその形をとどめていた」と記されています。その後、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査でもこの古墳は把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている、分布調査により作成された「狛江古墳群地名表」には、121番に「野屋敷古墳」の名称で取り上げられています。
問題なのがこの野屋敷塚の所在地なのですが、昭和35年の地名表には岩戸1300番地とあり、「中央電力研究所内 台地中央」とされています。しかし、その後の昭和51年(1976)の調査では、岩戸1349番地と記されており、昭和60年(1985)に発行された『狛江市史』には岩戸北4-5と書かれています。
昭和35年調査時の地名表にある所在地の記載の誤りについては、昭和51年調査時の地名表で訂正されているようですし、昭和51年調査の「岩戸1349番地」と昭和60年の『狛江市史』の「岩戸北4-5」は同一地点を指していると思われますので、この野屋敷塚の正確な所在地については、昭和51年の地名表に記載されている表示に信憑性があるように思います。ちなみに『狛江市の古墳(Ⅰ)』の42ページに掲載されている古墳の分布地図にも、野屋敷塚の位置は1349番地あたりに記されているようです。
画像は、旧番地の岩戸1349番地周辺のようすです。古地図と照らし合わせたところでは、画像の右側あたりが野屋敷塚の所在地となりますが、すでに宅地化が進んだこの地域に古墳の痕跡は見られません。
残念ながら、野屋敷塚は消滅してしまっているようです。

念のため、中央電力研究所も訪れてみました。
ぐるりと周囲を一周してみましたが、見渡したところでは古墳の痕跡は残されていないようです。
やはり、昭和35年の地名表の岩戸1300番地の(中央電力研究所内 台地中央)は誤りなのかもしれません。

画像は、野屋敷塚の跡地に近い、岩戸北4丁目に所在する「伊井出森稲荷」です。
この稲荷は「曽我稲荷」とも呼ばれて親しまれており、個人持ちの稲荷ではあるものの、地元の五軒屋組の家々から厚く信仰を寄せられている稲荷です。平成8年に現在地に移されて境内地はかつてよりもかなり狭くなったようですが、昭和の時代までは隣接するマンションの敷地にあり、広い境内地に祀られた社殿は小丘上に祀られていたといわれています。
この小丘が古墳であった可能性も十分に考えられそうなのですが、当初は、かなり近い位置に存在したと考えられる「野屋敷塚」とこの稲荷の関連を考えましたが、どうやらこの社殿が鎮座していたという「小丘」は野屋敷塚とは異なる地点となるようです。

現在の伊井出森稲荷の祠のようすです。
この稲荷の所有者宅には、この家に嫁いできたツルさんという霊感の強い女性がおり、幼少の頃から人の見えないものが見える人であったそうです。
この家に嫁いできてから不思議な夢をみて、伊井掃部頭ゆかりの稲荷を祀るようになり、これ以降、稲荷は伊井出森稲荷と呼ばれるようになりました。ツル氏は明治期から大正初期にかけて、多くの人の身の上相談を受けながら盛んに占いや祈祷を行い、俗に「岩戸の稲荷様」と呼ばれるようになったそうです。
特に占いは大変よく当たると評判だったそうですが、ご縁があれば私もみてもらいたかったです。。。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
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- 2019/10/15(火) 23:18:53|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
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