
「岩戸小川塚」は、狛江市岩戸南2丁目に所在したとされる古墳です。現在は削平されて存在しない古墳で、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
この古墳は、昭和35年(1960)に当時の狛江町全域で行われた古墳の分布調査時に把握されており、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には124番の無名の円墳として紹介されています。同書にはこの古墳の当時の現状について「平夷」とあり、また「規模・その他」の項には「台地の南側縁辺寄り」とのみ書かれており、この時点で古墳はすでに削平されて詳細はわからなくなっていたようです。
その後、昭和51年(1976)の調査の際には「現存しない古墳」の項に「1976年の調査時点で現存していないが、その存在が確認できるもの」として「岩戸小川塚古墳」の名称で取り上げられており、「1975年、多摩病院の建設により壊滅した」と書かれています。その後の、平成7年(1995)に多摩地区所在古墳確認調査団により発行された『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの古墳は取り上げられず、『東京都遺跡地図』にも未登録となっています。
画像は現在の多摩病院です。この周辺のどこかに古墳の痕跡が残されていないものでしょうか。

画像は、多摩病院の北側に隣接する岩戸地域センターです。一説には、この岩戸地域センターの場所は塚の所在地であったといわれているようです。
この場所が岩戸小川塚の所在地であるかどうかはわかりませんが、『狛江市の古墳(Ⅰ)』に掲載されている『狛江古墳群地名表』には、多摩病院周辺に何基かの無名の古墳の記載が見られます。かなり多くの古墳の存在が存在したのかもしれません。

ちょっと気になったのがこの場所です。岩戸地域センターの東側には、まるで建物の建設時に削り残されたかのような塚状の地形が存在します。
この地形が古墳の残存部分であるのか、それとも単なる築山なのかはよくわかりませんが、とても興味深い形状です。
狛江古墳群中、岩戸の支群に残存する古墳は「土屋塚」と「橋北塚」の2基のみで、和泉や猪方の支群と比べると少ない数となっているようですが、江戸時代の地誌『武蔵名勝図会』では、和泉村、猪方村の塚の数を9基としているのに対して、岩戸村では11基の塚についての記述が見られるようです。つまり、この岩戸面にも当初はかなり多くの古墳が築造されたのではないかと考えられます。
ただし、岩戸地域では、塚の多くが六郷用水に沿うように存在することから、用水を掘った際に出た残土を積み上げた塚であると伝えられてきたようです。岩戸地域の古墳が消滅するスピードが和泉や猪方と比べて速かったのだと仮定すると、岩戸の塚は残土を積み上げたもので、古墳ではないとするこの伝承も一因となっているのかもしれません。。。

築山の南東側には、ひょっとしたら古墳を崩した時に出てきた石材じゃないの?と疑ってしまいたくなるような巨石が置かれているのですが、いや、すべて私の妄想かもしれません。。。
一説には、この多摩病院の付近には、「関下稲荷」と呼ばれる、かつて西組の家々がまつっていたという講中稲荷の祠が鎮座する塚があり、この塚は「大山」と呼ばれていたといわれています。その後の開発により宅地造成工事が行われることとなり、塚は崩されて稲荷は岩戸稲荷に合祀されたようです。
この「大山」は多摩病院の東側にあったといわれているようなので、岩戸公民館の地点の塚とは別物と考えられますが、かつての岩戸小川塚の墳頂部にも稲荷祠が祀られていたといわれており、第二次大戦中にはこの塚の下に防空壕を掘って避難したという伝承も残されています。岩戸小川塚と大山が同一の古墳であるという可能性も考えられるのかもしれません。
<参考文献>
狛江市史編さん委員会『狛江市史』
狛江市教育委員会『狛江市の古墳(Ⅰ)』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
狛江市農業協同組合史編纂委員会『狛江市農業協同組合史』
狛江市(企画財政部市史編さん室)『岩戸の民俗』
人気ブログランキングへ
- 2019/10/17(木) 23:07:53|
- 狛江市/狛江古墳群(岩戸)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0