
「大丸城跡」は、南武線南多摩駅の南方約300mほどの丘陵上に所在したとされる城跡です。多摩川を望む丘陵の突端に位置するこの一帯は、「城山」と呼ばれるなど、古くから中世の城跡ではないかと考えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「土人これを城山と呼ぶ。登り一町余の山にて、上に堀の跡とおぼしき所あり、物見などせし所なるべし」と書かれています。
この遺跡は、多摩ニュータウン造成工事に先立つ、昭和55年(1980)から61年(1986)にかけて3次にわたる発掘調査が行われており、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明しています。『古墳なう』としては、古墳時代の横穴墓が2基が検出されているほか、経塚・墓跡が3基されていることから、取り上げてみました!
画像の周辺が大丸城の跡地であると思われますが、遺跡は山ごと削り取られて完全に消滅しており、現在は閑静な住宅地となっています。(実は、この写真を撮影するために登った高台が、稲城市の中央図書館もある「城山公園」なのですが、ここは実は城山とは全く関係がなく、あくまで「大丸城」のあったところが「城山」なのだそうです。紛らわしいですが。)

遺跡は消滅してしまったようですが、稲城市向陽台6丁目の小公園となっている一角に、稲城市教育委員会による説明板が設置されており、発掘当時の大丸城跡のようすを見ることが出来ます。(説明板にある、調査が終わってむき出しになった城跡の写真はなかなかに強烈です。これを山ごとずべて削り取って住宅地にしてしまったのかと思うと、もはや驚きしかありません。。。!)
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=195547&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、大丸城の跡地周辺の空中写真です。昭和23年(1948)3月8日に米軍により撮影されたもので、わかりやすいように大丸城跡が写真の中央となるように切り取っています。この当時すでに遺構がはっきりと見て取れるような状況で、見方によってはこの山自体が古墳跡に見えなくもないですよね。笑。

大丸城跡は、中世に築かれたとされる、山頂部に主郭を置く山城です。城自体は見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代頃に使われたことが明らかとなっています。
また、大丸城跡とともに特に重要とされるのが、奈良時代の瓦窯跡です。城跡の斜面から、奈良時代の瓦や須恵器を焼いた登窯が15基発見されており、武蔵国分寺や国府に使われた瓦の一大生産地であったことが明らかになっているようです。

城跡の周辺を散策していて偶然目に留まった、鳥居の奥に祠が祀られているという塚状のマウンドです。
視界に入って立ち止まった瞬間に、土地の所有者か関係者と思われる方が、家から出てきたところですれ違ったので、すぐにお願いして写真を撮らせていただきました。(私はこういうところは意外といつも運が良いのです。。。)
遺跡は、宅地造成により台地ごと削られていると思われ、古くから存在する塚であるとは考え難いところで、もちろん古墳である可能性は考えられませんが、かつて所在したとされる横穴墓や経塚と何か関係があるのか、詳細はわかりませんでした。
経塚・墓跡は3基が発見され、蔵骨器や経筒が出土しています。また、室町時代以降に他所から運ばれて再配置されたという板碑が、3群から計83枚、発見されています。

この遺跡内には少なくとも古墳は存在しなかったようですが、多摩川流域に位置する稲城市内に本当に高塚古墳が存在しなかったのか、とても気になるところです。
画像は、帰り道に見かけた庚申塔です。神社や、郷土資料館等に移設されることなく、こうして路傍に残されているあたりは、さすが稲城市!という感じですね。東京もまだ、捨てたもんじゃないんです!
<参考文献>
稲城市教育委員会『稲城市の歴史と文化財』
現地説明板
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- 2018/02/22(木) 01:10:59|
- 稲城市の古墳・塚
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